紅月咲く夜サンプル
1/大好きなもののひとつ/レミリア/
私には最近、大好きなものが三つある。
ひとつは太陽。少し前までは大嫌いだったお日様の光。相変わらず仲良くなれそうにはないけど、陽が出ている時に少しだけ良いことが訪れるようになったのだ。
今日もまた、太陽の光が身を焦がすように照りつけている。そんな日は部屋に引きこもって夜が来るまで寝るに限るんだけど、私はわざわざテラスに出てきて紅茶を飲んでいた。
そうすれば、彼女は私が陽に当たらないよう日傘を差してくれる。
一人で入るには大きいけれど、二人で入るには少しだけ小さい日傘。いつもは遠慮しがちに距離を置いてしまう彼女も、この時ばかりは触れ合うぐらい傍にいてくれる。この時、この瞬間だけ、私は太陽に感謝する。
もうひとつは紅茶。彼女の淹れてくれた紅茶。ほんのりと渋みのある紅茶に、たっぷりとミルクを入れて。とろけるぐらいに砂糖を入れて。
お気に入りのティーカップに彼女が注いでくれると、それだけで私は満ち足りた気持ちになってしまう。カップから溢れてくる美味しそうな香りと、彼女の期待に満ちた視線に我慢出来なくて、カップに口をつける。
紅茶は猫舌な私に丁度良いぐらいぬるくって、そして甘ったるい。
「いかがですか、お嬢様」
彼女は私が何か言うのを待ちきれない様子で尋ねてきた。期待と不安が混ざった瞳。いつもは澄ましているのに、こんな時だけ子供っぽい所が愛らしい。
「うん。美味しいよ、咲夜」
彼女の瞳を覗きながらそう答えると、ほっとしたように胸を撫で下ろして。
「……良かったです」
柔らかな、とても柔らかな笑顔を浮かべてくれた。
それを見て私は、やっぱりこの笑顔が大好きなんだな、って改めて思い知らされる。
大好きなものの最後のひとつ。
十六夜咲夜。
私がそういう人生をプレゼントした少女。
本来使用人が着る物であるエプロンドレスは、けれどそれを感じさせないほど彼女によって優雅に着こなされている。カチューシャの刺さる蒼い髪は太陽の光に透かされても輝きを損なわせることは無くて。海のように深い瞳には、とても嬉しい事だけれど、私の姿だけが映し出されている。
今まで出会ってきた中で、誰よりも瀟洒で、誰よりも可憐で、誰よりも愛しい人。
かつて気まぐれで拾ったはずの一人の人間は、今では最も多くの時間を過ごし、最も大切なもののひとつになりつつある。
私はそんな今の姿を、たった一言で理解している。
運命、と。
昔の私が今の姿を見たらどんな顔をするのだろう。と少しおかしくも感じてしまう。それほどまでに信じられないことだった。ただの食料としか思ってなかったはずの人間と、これほどまで近くにいるなんて。
「ねえ、咲夜」
私がそう呼ぶだけで、彼女は間髪入れずに返事をしてくれる。
「何かご用でしょうか、お嬢様」
そうして、私が望むものをなんでも叶えてくれる。
それは紅茶のおかわりが欲しいとか、クッキーが欲しいとか、そういう些細なことでも、どんなに大きな望みだろうと、きっと叶えてくれる。叶えようとしてくれる。――たとえ自分の命を捨てようとも。
「……ううん、ちょっと呼んでみただけ」
そんな咲夜だから私は好きになったのだし、咲夜をそんな風にしてしまったのも私だ。
主と従者。彼女と出会った頃から運命付けられたその関係は、今もなお鎖で繋がれたままだ。肩を触れ合わせるぐらいには近く、手を握るには少しだけ遠い。
そんな距離を変えてみたいとも思うのだけれど、それはきっと簡単なことじゃないんだろう。だって咲夜は、私を大切にしてくれているから。今の関係を何よりも大事にしてくれているから。
壊れてしまえば何処へ行けばいいのかも、何をすればいいのかもきっと分からなくなってしまうだろうから。
そして、それは私も。
これは信頼なんていう素敵な言葉なんかじゃなく、運命という無骨な鎖で繋がれた必然なんだ。定められた現在も、その先にある結末からも、決して逃れることなんか出来ない。
私はそれがすごく悲しい。もしもこの娘と他の関係でいられたのなら、それはきっと――
「……どうかされましたか?」
そんな風に思い詰めている所にふと優しい声が聞こえてきた。
きっと自分が思っているよりも怖い顔をしていたのだろう。
「なんでもないよ。ただ、いつもより少し暑いなって」
「今日はよく晴れてますからね。これからもっと日は高くなっていくと思いますよ」
「うん。だから……ね」
もっと近くに。
そう声に出すよりも早く。咲夜は朗らかに微笑むと、傘を寄せてくれた。
さっきよりももっと近くにいてくれる。
それでもやっぱり、二人の間に出来た空白が埋まることはない。
永遠に埋まることのないように思える距離。
それでも永遠なんてものはない。何故なら、彼女は人間で、私は吸血鬼だからだ。
種族の違い。決して埋まることのない二人の距離は、時間が経つほどに大きくなっていき、やがては手も届かない場所にいってしまうのだろう。
だから。
だからこそ、私は――
☆☆☆
その日の夜、私は二人を呼んだ。
月が徐々に削られていく夜だった。空から月が消えるまでにはまだ時間があるし、満月までなら尚更遠い。
もちろん。そうなる前に話をつけておかなければならないのだから。
呼び出したのは、いつもの食堂。とはいっても食事の時以外でこの三人同時に顔を合わせることはほとんどない。あるとすれば今回のように、私が何かしでかそうとしている時ぐらいだろう。
呼び出したうちの一人は、咲夜。これから先に起こる出来事の規模を考えれば他のメイド妖精たちも呼んだ方がいいのだろうけど、大人数を呼ぶと騒がしくなるのは目に見えていたので伝令役として咲夜を呼んだ。
普段馴染みのない私が言うより、メイド長である咲夜から呼びかけた方が妖精たちも言うことを聞いてくれるだろう。
そしてもう一人は……
「こんな夜更けになんのつもり、レミィ?」
私が信頼を置く友人である、パチュリー・ノーレッジだ。
これから先の出来事と、もっと先にある結末を考えれば彼女を呼ばないわけにはいかない。
「なあに、いつも通りよ。いつも通り、ちょっとした悪巧み」
不敵に微笑んでみせると、パチェは呆れたように肩をすくめた。
「紅茶をお淹れしましょうか?」
「大丈夫よ。そんなに長い時間はとらせないし、それに紅茶を飲みながらするような話でもないもの」
気を利かせようとした咲夜を呼び止めて、私は小さく息を吸った。燭台の上に灯されたロウソクの明かりが、小さく揺らぐ。
……さて。
「呼び出したのは他でもない。博麗の巫女が公布したスペルカードルールの話よ」
ぴくり、と二人の肩が震え瞳の色が変わるのが見て取れた。
「いつもの注意とかと違って大々的に宣言されたから二人とも聞いた事あるでしょう? 天狗達も新聞でこぞって広めてるし、妖怪達の間でも話題に上ってるし。
一つ、妖怪が異変を起こし易くする。
一つ、人間が異変を解決し易くする。
一つ、完全な実力主義を否定する。
一つ、美しさと思念に勝る物は無し。
……とまあ、なんとも綺麗事ばかりを並べた決闘法にも思えるんだけどさ。パチェ、これをどう思う?」
パチェにそう尋ねてみると、すぐに答えは返ってきた。恐らくパチェ自身にも色々思う所はあったのだろう。
「……要するに、妖怪達が人間を襲いやすくするための法律でしょう? 今の幻想郷における行き詰まりを解消するためには画期的な方法だと思うけど。妖怪が人間を襲えばすぐに博麗の巫女に駆逐されてしまう。そうすると妖怪は存在意義を失ってしまう。妖怪の衰退しかない悪循環を考えれば、悪くない方法なんじゃないかしら」
パチェはこのスペルカードルールについて、一定の評価をしているようだ。あるいは、私にその先を言わせないために肩入れをしているのか。
「うん。その通りだよ。妖怪にとってこれ以上に美味しい話もそうないだろう……表向きには、ね」
だが私はあえてその続きに足を踏み入れた。
「でもこういう一面もあるだろ? 美味い話に釣られた馬鹿な妖怪達を一網打尽に出来るっていうさ」
パチェは何かを言いかけたが、構わず話を続けた。
「どんな妖怪だって博麗の巫女になりふり構わず喧嘩を吹っ掛けたりはしない。巫女はただそれだけで強いし、何より無闇に手を出そうものなら賢者達の反発を買いかねない。……故に、巫女に反発を抱いてる者がどれだけいるかも分からないでいる」
咲夜は、口を挟むことなく傍らでじっと耳を傾けていた。
「そこでこのスペルカードルールだ。あわよくばと考えた妖怪達を燻りだし、巫女へと挑ませ、倒す。きっと二度と反乱なんて考えない――いや、出来ない身体にさせるためにね」
「でもルールでは殺しは……」
「あくまでも表向きのルールでは、ね。それにご丁寧に明言されてるじゃない。『不慮の事故は覚悟しておく』ことってさ。人間がどれだけ姑息な手段で私たち妖怪を退治(ころし)にかかるのか……パチェも知ってるだろう?」
そこまで言うと、パチェも黙ってしまった。
「第一さ。そんなこと関係ないんだ。殺しはしない、あくまでお遊び。だから安心してかかってこいなんて――舐めてるだろ、妖怪(わたしたち)を」
気付けば窓の外では雨が降り出していた。あるいは不穏な空気に触発されたフランを牽制するためにパチェが降らしているのかもしれない。
「ま、実際他の妖怪達も疑ってるんだろうね。スペルカードルールが出てしばらく経つけど、巫女に挑もうなんて連中は現れないもの」
肝心な日に雨が降ったりしたら嫌だなぁ、なんて呑気なことを考えたりもしながら。
「――私たちの他には、ね」
本命の言葉を口にした。
ずっと黙っていた咲夜は、ここにきてようやく口を開き。
「……お嬢様、ということは」
期待を込めた眼差しで、私を見つめた。
「ええ、舐められっぱなしってのは好きじゃないもの。次の新月の夜、私たちは幻想郷に宣戦布告する。お望み通りスペルカードに因って」
雷の音が鳴り響く。どこからか吹き込んできた風がロウソクの火を吹き消し、部屋には雷の光だけが満たされる。
「紅い霧を作って全世界を包み込むの。幻想郷が紅霧に包まれた時、ここは太陽の光の届かない夜の世界に――紅魔郷に生まれ変わる」
☆☆☆
私は一人、寝室から窓の向こうを見つめていた。
永遠に止まないんじゃないかと思えるほど雨は留まることなく降り続けていた。
私という存在をここに縛り付ける流れる水。けれど、止まない雨はない。いずれ空から雲は消え、星や太陽の光がこぼれ落ちてくるのだろう。
その日は、もう近いのかもしれない。
とんとん。というノックの音と共に、部屋の扉が開かれた。いつだって眠たそうな瞳を浮かべながら、いつだって真実を見つめている魔女。
「ちょっといいかしら」
「いいも何も、もう入ってきてるじゃない」
パチェは私のちょっとしたおとぼけなんか気にも留めず、中に私以外の誰も居ないことを確認すると、貫くような声で私に問いかけた。
「さっきの話、どういうことなの?」
「どういうこと、っていうと?」
「とぼけないで」
真っ暗な部屋の中、夜のような沈黙が広がった。雨音しか聞こえてこない。
「それ以外の意味なんてないよ。霧を作り出して博麗の巫女……いや、幻想郷にスペルカード戦を申し込む。それで――」
「それで。貴女はどうするつもり?」
パチェの瞳は、真っ直ぐに私の眼を射貫いていた。嘘でも吐こうものなら本当に串刺しでもしそうな程に。
「……そうね、パチェはどう思う? 私たちはこの戦争に勝てるかどうか」
だから逆に私の方から問いかけることにした。だがパチェは、そんなこと言うまでもないとでも言うばかりにばっさりと。
「無理ね」
一言で切り捨てた。
「わざわざ自分から言い出したということは博麗も相当自信があるはず。それに巫女を倒せたとしても、他の妖怪達が黙ってない。……ここに来た時のこと、忘れたわけじゃないでしょ?」
もちろん。と私は首を縦に振った。私たちはここに来た時に一度敗北しているのだ。このことを、咲夜は知らない。
「一度ならず二度までも事を起こしたとなれば、今度こそ無事じゃ済まないわよ。……それなのに、どうして」
再び、沈黙が部屋を包み込む。窓に打ち付けられた雨音だけが、私を責め立てるように鳴り響く。
「……答えて、レミリア」
久々に友人の口から聞こえてきた自分の名前は、ひどく乾いた発音をしていた。
「……そうね。私は、きっとまた負ける」
「だったら――」
「でも、今回は咲夜がいる」
一瞬だけ迷って、私は彼女の名前を口に出した。
「咲夜がいるから勝てるとでも言いたいの?」
そのパチェの言葉を聞いた時、私はどんな表情を浮かべていただろうか。
たぶん、笑っていた気がする。
「違うよ。咲夜がいるうちに私は負けなくちゃいけないんだ」
咲夜がいるうちに、生きているうちに。
いなくなってしまわないうちに、いなくなってしまわないように。
パチェは私の言葉を聞いて、ようやく私の意図に気付いたようで、はっと息をのんだ。
「……レミリア、貴女まさか」
パチェが驚くのも無理はない。だって、こんなのあまりに馬鹿みたいな話なんだから。
そう、自分でも馬鹿みたいだと思ってる。百年後に振り返ってみればきっとこの時のことを後悔するであろう……いいや、振り返ることすら出来なくなってしまうお話。
あまりにも稚拙で、あまりにも綺麗事なお伽噺。
「死ぬつもりなの? ……咲夜の為に」
だから私は、きっと私が浮かべられる最高の笑顔で、彼女に向けて微笑んでみせた。
「吸血鬼は巫女に破れ、その生涯を終える。これは、そういうお話。だってそうすれば――主を失った従者は、普通の人間に戻れるでしょう?」
「だからって、貴女がいなくなったら……」
パチェは何かを言いかけたが、そのまま口に出すことなく飲み込んだ。私が、どこまでも本気だということが分かったのだろう。
私は振り返り、窓の外を見つめた。雨は次第にその足音を弱めていき消え去ろうとしていた。
「……初めてかもね、レミィが誰かの為にそんな真剣になるの」
「ふふっ、そうだったかしら」
だけど、雨が上がっても水たまりは残る。
海には遠く及ばない小さな水たまりでも、それでいい。陽の当たる場所に救い出してあげられれば。
「……ちょっと、ロマンチックが過ぎるんじゃない?」
「そうかもね。でも、いいんだ。私は咲夜の王子様なんだから。お姫様を助けに行かなくっちゃ」
たとえ、自分の命と引き替えにしてでもいい。何を犠牲にしたって構わない。
「私は咲夜を自由に――そして、幸せにしてあげるんだから」
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