紅月散る夜 サンプル





   1/紅霧異変/霊夢


 幻想郷が紅い霧で包まれてから既に半月が経とうとしている。
 紅い霧、といっても霧そのものには大して害はない。せいぜい日光が遮られ地表まで光が届かなくなる程度。だがそれが半月も続くとなると流石に異常、あるいは異変と呼べる程度の騒ぎへと発展していた。
 陽の光が遮られるせいで日中も薄暗く、不気味だった。真夏のはずの幻想郷は冷夏というより冬の始まりのように肌寒い。憂鬱の象徴のような霧は日に日に濃度を増していき、ついには人間界に干渉せんとするまでに満ちていった。
 新月からおよそ半月。霞が掛かる夜空にうっすらと満月が見える頃。博麗神社に二つの人影があった。
 片方はこの神社の巫女である博麗霊夢。陶器のように白い肌よりも更に真白い白衣の上に緋袴を着た紅白の装い。普通の白衣とは違い肩口が無く、大胆に脇が出る格好になっているのが印象的な巫女装束だった。漆塗りのように和的な黒髪を除けば、髪を結ぶリボンまで赤色という徹底ぶりだった。
 もう片方は、これまた博麗とは対照的に、白と黒を基調とした西洋風の少女だった。
 少女の名前は霧雨魔理沙。ゴシック調の黒いロングスカートに白いフリルのエプロンドレスを身に纏った洋服。箒を手に持ち三角帽を被っている所から、魔女を模しているであろうことが分かる。
「なあ、霊夢」
 魔理沙が博麗の巫女に親しげに話しかけた。
「なによ」
「もう半月だぜ」
 もう半月、とはこの紅霧が発生してからのことだろう。要はこのような異変を真っ先に解決しなければならないはずの巫女に向けて催促しているのだ。
 だが肝心の博麗は、けだるそうに。
「といっても、これといって害もないし……昼間うろうろしてみてもあんまり妖怪も見ないしね」
「だからってこのままでいいわけ無いじゃないか。紅い霧なんて鬱陶しいし、夜が長くなると妖怪が喜ぶだけだぜ」
 そんな友人の指摘も、霊夢は「はいはい」とおざなりに聞き流していた。
 だが魔理沙としも特に霊夢をけしかけようというつもりは無かった。霊夢は自分の言葉を聞いて動くような人間じゃないし、むしろ行ってもらっては困るとすら思っていた。
「じゃあ、私がこの異変を解決しちゃってもいいわけだな」
 つまり、この了解がとりたいだけだったのだ。
 異変のプロフェッショナルである博麗の巫女に先駆けて、異変を解決するという言質を取るという事。
「うん、まあ、いいけど」
 それに対してあっけらかんと霊夢は答えた。
 その言葉を聞いて「よし」と小さく頷くと、昔ながらの魔女のイメージそのままに箒に跨がって。
「じゃあ一足先に行ってるぜ」
 霧の空彼方へ向けて、飛び立った。

 一人残された霊夢は、少女をぼんやりと見送りながら、小さくため息をついた。
 幻想郷を覆い尽くそうとしている紅霧。
 それはもちろん見過ごしておけるものではない。ましてや人間界までその危害が及ぶとなれば博麗の巫女が出ないわけにいかない。これまで霊夢が何も行動を起こさなかった事も、怠慢以外の何物でもないのだ。
「……たしかに、そろそろ行かないと何か言われそうよね。天狗の新聞にも書かれちゃってるし、日が当たらないと洗濯物が乾かないし。それに――」
 そう言いながら霊夢は、夜の暗闇を真っ直ぐに見つめた。
 いや、それはただの夜ではない。しっかりと目を凝らしてみれば分かるだろう。夜よりもなお暗く、光の当たらない純粋な闇。
「こういうやつらを相手にするのも、いい加減面倒くさいしね」
 暗闇に潜む妖怪の気配。
 光の届かない闇の中から出てきたのは、幼い少女の姿をした妖怪だった。
 ブロンドの髪をショートボブに切り分け、大人しい色合いの清楚な服装をした少女は一見可愛らしい少女のようにも見える。
 だが彼女の身の回りに漂う執拗なまでの闇と、人間からは漂うはずのない血の香りから彼女が人外の存在であることは明らかだった。
 少女の名前はルーミア。闇を操る程度の能力を備えた妖怪。
「こういうやつらって、わたしの事?」
「そうそう。あんたみたいに面白半分で私にちょっかいかけてくる連中のことよ」
 少女は宙を浮いていた。幻想郷の妖怪は大抵空を飛べるから、それは不思議なことではない。両腕を肩まで広げている意味は分からないが、変な体勢でうろつく妖怪も珍しくないのでさして気にはしなかった。
「だって、新しくスペルカードっていうのが出来たでしょー?」
 霊夢が反応したのは、その言葉に対して。
 命名決闘法(スペルカードルール)。
 それは博麗が新たに提案した幻想郷における戦いのルールだった。
 それは今までの戦いよりも、遊びという概念に近いものだった。完全な実力主義を否定し、弾幕の強さよりも美しさを競う遊び。
 ひいては、妖怪が異変を起こし易くするために。人間が異変を解決し易くするために。
「これだったら、わたしも巫女に勝てるかもしれないじゃない」
 弱きが、強きに挑み易くするために。
 その言葉を聞いて霊夢はぽりぽりと頭を掻きながら、なんだかなぁと思った。
 ……まさか、こんな末端の妖怪にまでスペルカードルールが広まっているとはね。
 この決闘法を提案してから、まだそれほど時期は経っていない。にもかかわらずこれを聞いて挑んでくる妖怪は後を絶たなかった。
 強い妖怪はまだ様子をうかがっているようだが、この手の妖怪が単身乗り込んでくる事があまりに多い。特に霧が出て妖怪が活動しやすくなってからは尚更だ。つまりどういうことかっていうと。
 舐められているのだ。
 この博麗(わたし)が。
「……やっぱり、解決するしかないか」
 思えば面倒くさいと異変を放置してたのがよくなかった。それで舐められて、相手によっては「博麗は弱体化した」と勘違いする原因にもなったのだろう。そう考えながら霊夢は懐からお札を取り出した。
「なあに? ひとり言?」
「ええ。これから一人で異変を解決しに行くんだから独り言になるわよね」
 ホーミングアミュレット。
 それは霊夢が最も愛用している弾であり、妖怪退治のためにある霊符だった。
「どうする? たった今忙しくなったから、お腹が空いて帰るって言うなら見逃してあげるけど」
 霊夢は彼女に向けて、さして期待もしてない言葉を投げかけた。
 そしてもちろん、少女の形をした妖怪は。
「目の前にいるのが、取って食べられる人間?」
 真っ直ぐに不敵な笑みを浮かべた。
 ぱっくりと大きく口を開いて、髪に結んだ御札を夜風にはためかせながら。
「良薬は口に苦し、って言葉知ってる?」
 その言葉がルーミアの耳に届くよりも前に、目前に弾幕が展開された。
「夜符『ナイトバード』!」
 宵闇を照らすのは色鮮やかな光弾だった。
 多くの弾が綺麗な弧を描き、霊夢に向けて展開されていく。地上を走って避けるのなら到底躱しきれない量の弾幕。……だが。
「良薬っていっても、飲んでみなけりゃわからないけどね」
 霊夢はつまらなさそうな表情のまま、その弾幕をくぐり抜けていった――空を飛んで。
 それは驚くべきことなどではなく、むしろ幻想郷なら、博麗の巫女なら当然の事だった。彼女に備わった「空を飛ぶ程度の能力」を持ってすれば、この程度の事なら造作もないことだ。
 そして空を飛び、弾幕のパターンを読んで隙間をくぐり抜けさえすれば練られた弾幕とはいえ避けるのはそう難くない。
 霊夢は弾幕をあえて紙一重の所で躱しながら、時折思い出したかのようにお札(アミユレツト)を放った。
 一枚一枚、その悉くが吸い込まれるようにルーミアに命中していく。
「だいたい、一パターンだけの弾幕なんて避けてくださいって言ってるようなものじゃない。もうちょっと頭使って出しなさいよ」
 ついには説教まで出始めた頃になって、ようやくカードの弾幕が尽きた。
 ルーミアがぜえぜえと息を切らすほど疲弊してるのに対し、霊夢は終始涼しい顔をして敵を見据えていた。
 実力差は歴然だった。周囲から見れば最早スペルカードを使い切るまでもなく、霊夢の勝利は決まっていただろう。
「で、もう終わり?」
 それでもなお挑発するのが、博麗霊夢という人間だった。
 それを受けたルーミアが何を感じたのか察することはできない。だが、疲労困憊のはずの妖怪は顔を上げて、霊夢の方をじっと見つめた。
「だったら、わたしのとっておきを見せてあげる」
 再び両腕を広げ、力一杯に叫んだ。
「闇符……『ディマーケイション』!」
 叫ぶと同時に暗闇が広がった。
 夜よりなお深い、光の届かない純粋な闇。それは自身を、弾幕を、霊夢までも覆い隠し包み込んでいく。
 一寸先すら見られない真っ暗闇。こんな闇の中では弾幕を躱す事は勿論、ルーミアに当てる事など出来るはずもない。
「これでど」
 どうだ、とでも言いたかったのだろうか。
 だが言葉を言い切るよりも前に、ルーミアの顔面にお札が命中してしまった。
 当たるはずがないと思っていたお札。だが次の瞬間彼女の目に映ったのは、彼女めがけて飛んでくる無数のお札だった。
「そうそう、言い忘れてたけど」
 何故? どうして? 疑問符がぐるぐると回る思考の刹那、闇の向こうから霊夢の声が木霊した。
「私のお札は妖怪目がけて飛んでくようになってるから、見えようと見えまいと関係ないのよ」
「そーなのかー」
 全弾命中。
 同時に闇は晴れて、夜の月明かりと紅霧だけが暗夜に残った。

○○○

 スペルカード戦の後処理を終えて、霊夢は「さてと」と仕切り直した。
 そろそろ解決に乗り出さなければなるまい。
 こうして妖怪の活動が活性化していけば、いつ人里に被害が出てもおかしくない。
 それに、これはスペルカードルールを提唱してから初めての異変である。ならば尚更私がやらなくてはなるまい。
 博麗を侮らせないために。
「あいつが異変を解決してくれるって可能性もあるけど……それじゃ報酬が出ないしね」
 ぐるりと、霊夢は周囲を見渡す。月夜に霧が染み渡り見通しは悪く、霧が濃いのか薄いのか、それすらも分からない。
 そんな中、霊夢は境内裏にある湖の方に向けて目を凝らし、一人呟いた。
「……なんとなく、あっちが怪しいわね」
 それは推測ですらない、まったくの勘。
 だが霊夢は欠片の迷いもなく、妖霧の空を駆けていった。

 そして、その直感は正しかった。
 この霧の向こう側。湖を越えた先にある紅魔館で、巫女は吸血鬼と出会った。

 ――これが、後に紅霧異変と呼ばれる事件の始まりである。





   2/氷結妖精/魔理沙


 博麗神社を出て行った後、魔理沙は湖の向こうを目指して飛んでいた。
 というのも、彼女は数日前から調べてまわっていて、湖の辺りが特に霧が密集していることに気付いたのだ。
 そこから紅霧の密度を調査し、大体の検討をつけたのが昨日のこと。丸一日かけて妖怪退治の準備をしてこの日の為に備えたのだ。
「……しかし、方向は合ってると思うんだがなぁ」
 かれこれ自慢の箒を飛ばし始めて十分弱。なかなか辿り着かない目的の場所に魔理沙はやきもきしていた。
 問題はそれだけではない。夏夜の湖は想像以上に風が冷たく、普通の人間である魔理沙は飛んで行くと同時に、着実に体力が奪われていた。
 いや。と魔理沙は考えた。
 いくらなんでもこの寒さは異常だ。妖霧のせいで陽が当たらない日が続くとはいえ、真夏の夜にここまで寒いわけがない。
「となると、だ」
 一旦、加速を止めて適当な場所に魔法製のミサイルを撃ち込んでみる。すると霧の向こうから可愛らしい悲鳴が聞こえてきた。
 そちらの方に向けて、今度は八卦炉(はつけろ)を向ける。するとこれ以上食らってはたまらないといった様子で、蜘蛛の子を散らすように妖精がバラバラに退散していった。
「やっぱり妖精の仕業か……くそ、私とした事が」
 この様子を見ると、どうやら妖精が群になって道を迷わせていたのだろう。こういった些細なイタズラにかけては妖精の右に出る者もそうそういないだろう。
 とはいえ、妖精なんてそう強いもんじゃない。下手な人間よりよっぽど倒し甲斐がない相手なので、こういう急ぎの時には脅してやるに限る。
 そうして何事もなく妖精を追い払った魔理沙は、再び箒を加速させ陸地を目指そうとした。
 ……だが。
「待ちなさいよ」
 一匹の妖精が、彼女の前に立ちはだかった。
青いワンピースのような服を着た少女だった。髪の色も瞳の色も夏の湖のように青々しく、子供っぽい。妖精というのは皆幼げな雰囲気が残っているものだが、少女の場合は里の人間達に混ざって遊んでいてもおかしくないような活発な印象があった。
 けれど、少女が人間の子供と一緒に遊ぶ姿を見る事は難しいだろう。何故なら少女の背中には妖精特有の羽が生えていたし、何より――触れると凍傷になるほどの冷気を漂わせていたのだから。
「待つぜ」
 なかなか面白そうな奴に出会ったな、と魔理沙は思った。
 ここら一帯が異常なほどに寒かったのはおそらくこいつの仕業だろう。これほどの広さを冷却するほどの能力となると並の妖精じゃない。……まあ、寒くなかったら妖精の仕業と気付くのにもうしばらく時間がかかったわけだが。
「それで、何の用だ?」
「しらばっくれんじゃないわよ。あんた今大ちゃんに弾撃ち込んだじゃない!」
 大ちゃん、という名前に魔理沙は心当たりは無かったが、おそらく少女の友達なのだろう。
「さっきの中にいたのか……でもそいつだって私を道に迷わせてたんだろ? 自業自得さ」
「人間を迷わせるのは楽しくてやってるの。それを逆恨みするなんてひどいじゃない!」
 とばっちりも良い所だった。
 他の人間だったら相手にするのも面倒くさいと素通りしただろう。だが魔理沙は、その小さな妖精に向き合った。丁度良いとさえ思った。
「文句があるんだったらこいつで決めようぜ」
 そう言って、彼女が取り出したのは一枚のスペルカード。
「お前たちも、こいつは知ってるんだろ?」
 腕ならしだ。
 辿り着くまでにこいつでこの決闘法というものを見極めておこう。
「スペルカードね! ふふん、あんたも面白いもの知ってるじゃない!」
 一方の妖精も乗り気なようで、魔理沙のそれを見ると嬉しそうに腕まくりした。既にその表情に怒りの色はなく、新しいものへの興味だけが映っていた。
「一応聞いておくぜ。……名前は?」
「チルノよ! あんたは」
 彼女は、大きな三角帽のつばを大げさに持ち上げながら、堂々と前を向いて言った。
「魔理沙。人間、霧雨魔理沙だ」
 弾幕戦が始まる。
 魔理沙が繰り出す弾幕は魔法からなるミサイルだった。先程妖精に向けて撃った物と同じ、言わばマジックミサイルだ。
 一つ一つは小さい、だが連続して放たれるミサイルに最初は躱していたチルノも、次第に避けきれなくなっていく。
「ふん……だったらあたいも!」
 チルノが声をあげると同時に、空中の水蒸気が凍り付き、音を立てて形を成した。
 空に無数に浮かんだそれは、氷柱(つらら)。
「氷符っ、『アイシクルフォール』!」
 自然が生み出す凶器が、意志を持って魔理沙に襲いかかった。
「おお、そんなことも出来るのか!」
 弾幕云々ではなく、一つ食らっただけでただで済むはずのないそれを前に、魔理沙は笑っていた。
「でも、真っ直ぐに飛んでくるなら避けやすいぜ」
 そしてあろうことか、弾幕に向かって突進していったのだ。
 ――鋭角に尖り襲いかかってくる氷柱は、確かに驚異である。
 だがそれは本来の戦闘ならばの話である。だが躱す事を主な戦い方とするスペルカード戦なら、落ちてくる方向を見極め躱す事はそう難くない。
 そして魔理沙ならそれが出来る。彼女はそのために今日まで努力をしてきたのだから。
 彼女は氷柱を恐れることなく、道が閉じきるよりも速く、くぐり抜けられなくなるよりも前に、氷柱の弾幕を突破した。
 そしてあろうことか、戦いの最中魔理沙は悠々とチルノの目の前に辿り着いていた。
「どうした、もう終わりか?」
 ちょいちょいと、指で動かしてチルノを挑発する。
 最初は突然の事に唖然としていたチルノだったが、その挑発を受けて顔を真っ赤にすると怒ったように声を荒げた。
「ふざけやがってー! 凍符『パーフェクトフリーズ』!」
 怒鳴り声と共に放出したのは無数の光弾だった。
「おっと!」
 慌てて箒を翻しつつ、慎重に弾幕を躱していく。ただ速いだけの弾であれば魔理沙に躱せない物は無い……だが。
「っ!? 止まっ……」
 その弾幕が空中で突然制止――いや、凍った。
 だが唐突に動きを止められた弾がそのままの状態で氷結していられるわけもなく、やがて臨界点を越えると暴走したようにあらぬ方向へ解き放たれていく。
「頭が良いんだか悪いんだか……っ!」
 アトランダムに動き回る光弾を相手に強引に躱していく事を余儀なくされる。撃った本人にすらどこに行くか分からなくなった弾幕に、最早規則性などあるわけがなかった。
「どうよ、あたいったら最強ね!」
 完璧に決まった弾幕を目にし、勝利を確信したチルノは一人笑い声をあげていた。
 考えに考え抜いた自慢のスペルカード。これを出して負けるなんてあるわけがない。
 そう思っていた。
「そうか? 案外避けやすかったぜ」
 この日、魔理沙に出会うまでは。
「嘘!?」
 目の前にいる魔理沙はそんな弾なんて一つも食らわず、かすりもせず、余裕の表情で空中に浮かんでいた。
 あり得ない。そうチルノは思った。
 妖精の中ではあたいが一番強くて、今の技が決まったらみんな立ち上がったりなんかできなくて。
「ちょっと寒かったけどな」
 だけど、目の前の人間はまるで何も無かったかのように、平気な顔をしてあたいの前に立ちはだかっていて。
「そんなっ……あたい……あたいが……」
 こんなのみっともない。最強であるはずのあたいが、こんな人間なんかに……負ける。
 そう考えると、チルノの瞳から涙が零れ始めた。悔しくて泣く。それは少女にとって久しぶりの経験だった。
 だが魔理沙はそんな少女の姿を見て、慰めようとはせずに。
「泣くなよ、まだ終わってないんだろ?」
 言われてから、チルノは自分の目からこぼれているそれに気がついたようだった。
 咄嗟にそれを腕で拭った。拭っていると、少女には目の前にいる人間の声がさっきよりも真っ直ぐに聞こえるようになっていた。
「まだもう一枚残ってるんだろ? だったら、それを使い切ってから泣け。きっちり負けてからもう一度泣け。散々泣いて、反省して、そしたら――もう一度挑んでこい。スペルカードだったら、いつでも受けてやるぜ」
 チルノはその言葉を、一心に聞いていた。澄み渡る空気を伝って届いてくる言葉を一つ一つ真っ直ぐに受け止めていた。
 そしてチルノは、泣くのを止めた。
 前を見上げた。自分より上空を飛んでいる魔理沙をそのままの眼差しで見つめていた。
「まりさ……うん!」
そして少女は、魔理沙目がけて両手をかざして。「雪符、『ダイアモンドブリザード』!」
 スペルを唱えた。
 瞬間、これまでの技で空気中に充満していた水蒸気が一気に凝縮された。凍り付き、固まり、雪になり、吹雪になった。
 大自然の連鎖が、一匹の妖精の手によって、一人の人間に向けて襲いかかった。
「直球勝負か……嫌いじゃないぜ」
 その豪雪に魔理沙は挑む。
加速。
 彼女の取り柄である、スピードで挑んだ。
 吹雪に体温が奪われるよりも速く。雪の結晶が彼女を捕まえるよりも速く。迫り来る暴風よりなお速く、魔理沙は駆けた。
 そして駆け抜けた時。豪雪の弾幕を突き抜けた時。彼女は少女に八卦炉を向けて。
「なかなか楽しかったぜ、またやろうな」
 イリュージョンレーザー。
 魔術による光の軌跡が、氷の妖精をたたき落とした。

☆☆☆

「さてと……思ったより時間を食ったな」
 チルノとの戦いの後、魔理沙は再び湖畔を目指して箒で飛んでいた。
 もう周囲に妖精の姿はない。この分ならさして時間もかからずに畔(ほとり)まで辿り着くだろう。
 さっさと解決しないと、いつ霊夢がやってくるか分からないからな。
 彼女はその事を懸念して先を急いでいた。ああやって宣言はしたものの、魔理沙は霊夢がいつまでもだらだらと待ってくれているとは思ってなかった。気まぐれの霊夢の事だから、うかうかしていつの間にか異変が解決してたなんてことになったら目も当てられない。
 そうやって飛んでいく最中、目の前に人影が見えてきた。紅色の長い髪をした麗人だった。
「……やらないのか?」
 構える様子もないので聞いてみると、彼女は魔理沙にさして興味もない様子で淡々と言った。
「あなたを通すなとは言われてませんから」
「分かった。そうかい」
 あまりに呆気なく言われたので、魔理沙も淡々と事実を受け入れていた。
 どうやら、この異変を起こした誰かさんは、誰かがこれを止めに来る事が分かっていたようだ。
 そしてその誰かに、私は含まれてなかったって事だ。
 そうかい。私なんて眼中に無いってわけか。
 本来なら屈辱的ともいえる対応に、魔理沙は俄然やる気を出していた。
 なら丁度良い。隙だらけって事だ。
 私は私で好きにやらせてもらうぜ。
 魔理沙は跨がっていた箒を加速させた。誰にも追いつけないぐらい速く。誰にも追いつかれないように速く。彼女は、強く思っていた。

 絶対、私がこの異変を解決してやるんだ。


(続く)

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