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誘宵








          いざ『私の世界』へ






                       

                           (東方儚月抄より)





  0/いざよい/


「ねえ、どうして殺したの?」

 周囲一帯は憎悪的なまでに屍骸で溢れ返っていた。
 時刻は満月が昇り始めた頃。梟すら住まない色の消えた夜の森。
普段ならば夜の森は妖怪達の餌場。血に飢えた魔物は人間を求め、密林の中を這いずり回る――だが、忌憚の訪れた今宵の森に、その者達の姿はない。
そこにいた妖怪達の瞳はとうに光を失っていた。ある者は喉元から血を流しながら。ある者は傷跡からこぼれる臓器を押さえながら。ある者は両目を見開いて死んでしまっている事さえ忘れながら。
 それはありとあらゆる方法で、なおかつ完全に命を途絶えさせていた。共通点といえば、せいぜいその死因全てが刃物によって切り裂かれた痕であることぐらい。それ以外は何ら関わり合いのないはずの只の獲物を求めた妖怪達である。
 全ての亡骸の中央に、膝を抱え座り込む一人の少女がいた。煤こけた頬。乞食にも似た服装に、銀色の短い髪。焦点の合わない暗く濁った蒼い瞳。
 普通の人間が見れば、その少女もただの獲物にしか見えなかっただろう。けれどその手に握られた銀製のナイフが、この惨状の原因が少女にあることを物語っている。
 少女は震えていた。夜の森が寒いのか、それとも自分の犯した業に脅えたのか。
 最早ここに生者はいない。勝った者も負けた者も、皆命を失っていた。
 地獄があるとすればここもそう呼べるのではないか。そんなことを彷彿させるほど、悪意に満ちた孤独な森。

 少女と彼女は、ここで出会った。

 彼女はそんな光景の中でさえも凛としていた。血と同じ色をした朱の瞳は緋色のドレスと鮮やかに調和し、色のない森に紅一点を映えていた。
 その横顔の造形美は、おおよそ人に備わるものではない。彼女を形容するものがあるとすれば天使か――それとも、悪魔ぐらいのものだろう。
 ドレスが血に犯される事も躊躇わず、彼女は少女の近くまで歩み寄った。
 彼女は微かに唇を動かし、唄でも口ずさむかのように軽妙に言う。
「ねえ、どうして?」
 少女に対する二度目の問い掛け。そこで少女はようやく質問の対象が自分である事を理解したようだった。
 少女は僅かに顔を彼女の方へ向けると、ぽつりと蚊の鳴くような声で空気を吐き出す。
「怖かったから」
 人間よりも人間らしい答えに、彼女は僅かに唇を歪ませる。よほど眼が悪い人が見れば、それは笑顔に見えただろう。
 姿を隠していた朧月は次第に夜の森を照らす。木々の隙間に朽ち果てた物――血と滑稽の塊。
 人でも、動物でもない、忌むべき妖怪達の成れの果て。
 それら全ては一人の少女の手によって行われた業であった。
「それじゃあ、私は殺さないの?」
 少しおどけた様に彼女は尋ね、また一歩少女の元へと近寄る。
 射程範囲。少女はそう思った。
 この距離であれば、彼女は少女に何も手を下さずに殺すことが出来るだろう。殺さなければ殺される。数々の死を目の当たりにしてきたからこそ、少女にはそれが分かった。
 けれど少女は、ナイフを身構えることもなく、彼女にさしたる興味を向けることさえなく、ただ一言。
「だって、怖くないから」
 死んだ声で、そう呟いた。
 少し風が吹く。雲に隠れた月はたった今完全に消え失せ、空を満たす月が現れた。
 彼女の華奢な腕が彼女に伸びる。白く細く美しく、紅く染まった手のひら。
「だったら、私のメイドにならないか?」
 その手を、少女だけに向けて差し出した。
 少女は呆然とその手を眺め、彼女の瞳を覗きこむ。冷たく暗く光る紅い紅いその瞳を。
 その瞳を見た少女は、僅かに頷いた。
 少女は冷たく染まった手で、彼女の手を握り返した。




 少女は彼女に導かれ、道を歩いていく。


 彼女によって造り出された、血と月の紅い道を。




 ――私の名前はレミリア。あなたの名前は?――


 好奇心から彼女はそんなことを尋ねた。


 ――知らない、分からない――


 記憶のない少女はその言葉に首を横に振った。


 ――だったらあなたは、今日からこう名乗りなさい――











 ――十六夜咲夜、と――








  プロローグa/紅魔館のメイド/咲夜


 朝。

 私はいつものように一瞬で身支度を終え、自分の部屋を出た。
 少し寂れたようにも見える古い洋館。冷たい石造りの壁を見渡しながら、赤い絨毯の上を歩いていく。絨毯は見た目こそ華やかに見えるが、新調してから長いこと使われているせいか所々に綻びが見られる。そろそろ新調しなければならない時期だろう。
 そんな事を考えていたら、ふと自分の給仕服が気になり始めた。青を基調とするフリルの多いそのドレスは、歴史のある建物とは不釣り合いなほど真新しい物。いったいお嬢様はどこからこれを仕入れて来るのだろうか。
 ……と考えたところで無駄なのは分かっているから、それ以上は考えないようにする。あの方は私以上に謎の多い方なのだから。
 そしてお嬢様の部屋の前までたどり着くと、入室する前にこほんと咳を一つ。
 返事がないことを確認すると、私はその木造の重量感ある扉をノックする――その時、低く掠れた声が私を呼び止めた。
「レミィならいないわよ」
 その声に振り向くと、この紅魔館の唯一のお客でありお嬢様の親友である、パチュリー様がそこに立っていた。
「日が昇る前に散歩に行くと言って外に出かけていったから。今はもう夜明けだけど、この天気なら問題ないでしょ」
 少しずれた帽子を直しつつ、パチュリー様は窓の外を見上げた。私もつられてみると、なるほど曇り空。これなら太陽の日差しに弱いお嬢様も大丈夫だ。
 視線を戻すとパチュリー様は、一つ小さな欠伸をして未だ眠たげに瞼を擦っていた。本来なら彼女は眠る必要のない魔法使いのはずなのだが、ここ数日は休憩も摂らずに調べ物をしているようなので疲れが溜まっているのだろう。心なしか普段よりも身体まで小さく見える。
「悪いんだけど、紅茶を淹れてくれないかしら。最近ちょっと疲れちゃって」
 ふわぁ、ともう一つ欠伸をしたパチュリー様は、耐えかねたようにそう頼んだ。
「かしこまりました。それでは、五秒ほどお待ちください」
 私は小さくお辞儀をし――《キッチンへと向かった。キッチンまでならここからそこまで距離がないので、すぐに行くことができる。》
《キッチンへ着いた私はパチュリー様が愛用しているティーカップ(というより実用性を重視したそれは、どちらかといえばマグカップの方が近い)と茶葉を棚から取り出し、水を入れたヤカンに火をつけた。そこから待つこと三分、沸騰したお湯を注ぎ紅茶を淹れ、それをトレイに乗せるとパチュリー様の元へと戻っていく。》
《お嬢様の部屋の前で時の止まった彼女の前に戻り、走ってきたため乱れた息と髪型を少し整え》――「お待たせしました」とパチュリー様にトレイに乗せたティーカップを差し出した。
「……相変わらず便利な技よね。まるで手品だわ」
 パチュリー様はそれを受け取ると、半ば呆れたように、半ば感嘆するようにそう呟いた。
「手品ではありません。手品は人を楽しませるための物ですから」
「あら、私は十分楽しめたわよ」
 満更嘘でも無さそうにそう言うと、淹れたばかりの紅茶を一気に飲み干す。見かけによらず豪快な飲み方だ。
「でも紅茶の方はまだまだね。レミィならこれでいいかもしれないけど、砂糖の入れすぎだわ」
 そんな苦言を漏らしながら、ティーカップをトレイの上に戻した。
 私は再び時を止めて――《空いたティーカップを丁寧に洗い元に戻すと、再びお嬢様の部屋の前で》――「かしこまりました、次からは気をつけます」と、素直な感想を口にした。
 するとパチュリー様は少し驚いたように、私の瞳を疑っている。
「……なにか問題がありましたでしょうか?」
 何か粗相があったのではないかと思い尋ねてみた。しかしパチュリー様は、少しだけ首を左右に振らすと。
「いいえ。ただ、あなたも最初に来た頃と比べて変わったわよね」
 昔を懐かしむかのように、感慨深げにそう呟いた。
「そう……でしょうか?」
「そうよ。あなたは気づいてないかもしれないけど、同じ人間とはあまり思えないわね」
 パチュリー様にわざわざ言われるということは、本当のことなのだろう。頭脳明晰なのに、他人の事となると全くの無頓着な人に言われるとゆうことはよっぽどのことだ。
 自覚がないだけで、たしかに、私も少し変わったのかもしれない。
 外では風が吹いている。少し冷たい風。昔と今を行き来する、七年を歩む風。
「あなたはどうする? まだ朝食には早いでしょうから、魔法でも……」
「いえ、とりあえずお嬢様を捜してこようかと思います」
 私はパチュリー様が言葉を言い終わる前に、自分の意志を告げた。
 魔法を教えてくれるのは有り難いのだが、一日の始まりにあんなハードな特訓を行ってしまうと人間の私では身が保たない。パチュリー様の特訓は出来れば一日の終わりに、あわよくば逃げるに限る。
「そう。わかったわ、じゃあまた後にしましょう」
「はい、それでは」
 少し物足りなさそうな眼差しを向けながらも、今回は大人しく引き下がった。おそらくお嬢様を捜そうと思っていたのが嘘じゃなかったからだろう。
 ただその分「また後」が怖いのだが……。
 とりあえず先のことは考えないようにしながら、私はそのままお嬢様を捜しに行くため窓を開ける。
「待った」
 呼び止めたのはパチュリー様。
「……なんでしょうか?」
 恐る恐る振り返る。まさかやっぱり図書館行きなどということは……。
「別にあなたの考えてるような事じゃないから、そんな顔をしないでよ」
 私の表情を見た彼女は、呆れたようにため息を吐いた。
 そんなに酷い顔だったのだろうか、たしかに嫌だったけれど。
「これを持って行きなさい」
 そう言って手渡されたのは、お嬢様の白い日傘だった。
「……晴れますか?」
 窓の外は、どんよりと薄暗い雲が広がっている。
 しかしパチュリー様は、まるで分かりきったことのように――それも少し呆れるようにして断言してみせた。
「晴れるわよ。あなたが行く頃には」


 空を飛びながら、私はお嬢様を捜していた。
 一日が始まりを迎えたばかりの風は心地よく、それでいて雲は太陽を遮り光があまり届かない。お嬢様にとっては絶好の散歩日和と言える。
 広い庭ではお嬢様の姿を見つけることはできなかった。ここでないとしたら森に行っているのだろう。面倒くさがりのあの人は、森より先には滅多に行くことがない。森へ行くことでさえ珍しいことなのだ。
 そんなことを考えていたら、ふと昔のことを思い出した。
 思えば、あの出会いはなんという偶然だったのだろうか。
 百日に一度ぐらいしか森へ行かないあの人が、たったの三日間同じ場所に留まり続けていた私を見つけてくれたあの日。
 あれが偶然だったと言われようとも、私は決してそうとは思わなかった。あの日の夜、寒さと恐れで震えていた私の手を握ってくれたあの人との出会いは、きっと約束されていたものだったのだと信じている。

 たとえば、運命とかに。

 お嬢様が森にいると分かれば早速――行くよりも前に、お嬢様は森から戻ってきてしまっていた。
 遠くに見えるのは、薄いピンク色のドレスを身に纏った彼女。
 蒼く短い髪をなびかせて、背中から生える羽を気まぐれに動かしている。
 そして妖艶に煌めく紅い瞳が私を見つけると、
「どうしたの? 咲夜」
 私に向けて、レミリアお嬢様は可笑しそうな笑みを見せてくれた。
「朝のお散歩です」
 少し嘘をついた。見つけられなかった悔しさが多分、恥ずかしさが少し。
 お嬢様の元へ駆け寄り、地面に足を着ける。こうして肩を並べると二人の間にはかなりの身長差があるのだが、不思議とそれを感じさせない貫禄のようなものを感じる。
「じゃあ私と同じね」
「はい」
「だったら、少し一緒に歩いて回ろう」
「かしこまりました」
 半ばお決まりのようにもなっている会話を繰り返すと、お嬢様は庭の方を歩き始めた。
 私もそれに従い、数歩後ろをついて行こうとした。するとこの方は後ろを振り返り、少し咎めるように言った。
「傘を差してくれる? 丁度陽が出てきたところだから」
「はい」
 これもお決まりの台詞。
 空を見上げれば、確かに太陽は雲の隙間からその姿を覗かせていた。
 お嬢様の隣へと寄り添い傘を開くと、彼女は満足そうな笑顔を浮かべた。




  1/紅魔館/レミリア


「馬鹿じゃないの?」
 私が連れてきた女の子を見て、パチェはしかめっ面を浮かべながらそう言った。
 一方の女の子はといえば、薄汚れた洋館を物珍しそうな瞳でキョロキョロと見回している。それも当然だ。外見はおどろおどろしい吸血鬼の館だが、中に入ればそんなものは跡形もないただの廃墟。外の世界の言葉で言う、いわゆる不良物件なのだから。
「別に発想は悪くないじゃないか。屋敷が汚れてる、自分で掃除をするのは面倒、だからメイドを雇う。ほら、理にかなってる」
 別にそんな事を目的に彼女を誘ったわけではないけれど、特に明確な目的もないのでとりあえずこの場はそう言っておく。
 そして目の前の彼女は、そんな私の心を見抜いているからこそ怒っているのだ。幻想郷に来てから全くと言っていいほど手入れをされてなかったのだから掃除をしなくちゃいけないのはもっともなのに……どうしてこう頭が固いのか。
「またそんな適当なこと言って……だからって何も人間を雇うことはないでしょ。それもこんな実験にも使えなさそうな脆弱な子供を」
 実験に使わなさそうだったから連れてきた、とは言わないでおこう。意地っ張りな彼女はそう言ったら無理にでも使いかねない。
 咲夜と名付けた少女はそんな彼女の雰囲気を悟ってか、私の背中に隠れるようにしてちらちらとパチェの様子をうかがっている。だが若干私の方が背が低いから頭が丸見えになっているのが滑稽で愛おしい。
「でも興味深い材料ではあるよ。私にとっても、あなたにとってもね」
「興味深い……?」
 目深に被った帽子の奥で、細い眉がぴくりと動く。これだから魔法使いは。
「ええとっても。素質の上ではあなたを上回るほどに」
 私は背中でぷるぷると震える可愛らしい少女を前へとやった。あまりに可愛らしいので永久保存しておきたかったが、生憎パチュリーという肉食魔法使いの前だとその行動は逆効果だ。
 咲夜は初めこそ慌てたが、やがて落ち着きを取り戻すとパチェの瞳をしっかりと見据えた。青く蒼く碧い瞳で。
 彼女はそんな少女をじっと眺めると、選別を始めた。少女の手を取り、ナイフを握り続けて出来た豆を眺める。身体に傷一つ負っていない少女の身体に触れる。そして見ず知らずの魔女にここまでされても、既に身動き一つしていない少女の瞳を覗き込む。
「なるほど……」
 そう呟き、そっと銀色の髪を撫ぜる。撫ぜたかと思うとその手を離し、ゆっくりと数歩遠ざかる。
「見せてみて」
 そして魔法使いは、好奇心故にそんなことを言う。
 咲夜は心配そうに私の方を向いた。私はそんな少女に向かって、笑顔で言ってあげる。
「いいわよ。殺してあげなさい」
 その言葉に頷くと、少女は――《時間を止めた。》
《時計の針が止まる。瞬きが止まる。風が止まる。生命が止まる。何も生きてなどいない世界に、少女は一人だけ生きていた。》
《少女はそっとポケットにしまい込んだナイフを引き抜く。幾重もの血が染みこんだそれは、しかし今は拭われており、錆だけが名残のように残っている。》
《そして少女はゆっくりと、鈍く光る》刃を魔法使いに向け、突き立てようとした時に気がついたようだ。
 風が吹いている。
 全てが生きている。
 時は既に、動き出している。
「……たしかに、恐れ入ったわ」
 咲夜はパチェの顔を見た。自分の作り出した世界を壊した彼女は、まるで何事もなかったかのように感心していた。
「その歳にして、しかも人間の身で時間を操ることができるとはね。あるいは空間かしら。そうだとしたらもっと凄いわ。空間存在の概念をねじ曲げることから始まり……いや、それとも作り出すことで確変して……」
「パチェ、あんまり小難しいことを言わないで。咲夜が置いてきぼりになってる」
 私にそう言われてやっと気づいたのか、ああと独り言のような解説を止めて咲夜の方に向き直った。
 少女は自分の置かれた状況がわからずに、止めたはずの時が動き出したことを理解できないまま呆然と立ちすくんでいた。
「そうね、まず自分の能力について理解すらしてないうようだもの」
「うん。この子は能力を理屈で学んだんじゃなくって才能で理解しているみたい。だからそんなうんちくばかり語ってたらパンクしちゃうよ。……それで、答えは?」
 答え、とはもちろん最初の提案。
 この吸血鬼の館の中に、二人目の部外者を入れるか否か。
 その一人目の部外者は一つため息を吐くと、呆れたように肩をすくめて単純な答えを出した。
「最初から駄目だなんて言ってないわよ。ただ、馬鹿だと言っただけで」

     ***

 意地悪な魔法使いの承諾も得たことなので、とりあえず咲夜にやって欲しいことをざっと伝えることにした。
「とりあえず雑巾と箒で館中を綺麗にしてくれればいい。道具はそこに用意したから自由に使って。ひとまずはフロアだけでいいから今日中に仕上げてね、日が暮れた頃にもう一度見に来るから。それから……」
「……あのっ」
 すると、今まで大人しく黙っていた少女が口を開いた。背は私より少し高いはずなのに、猫背になってて上目遣いなのがまた可愛らしい。
「どうして自分の時を破られたのか、ということ?」
 私が少女の疑問を口にすると、一瞬驚いたように目を見開く。しかしすぐに澄ました表情に戻ると躊躇わず首を縦に振った。
「それは心配しなくっていいよ、あの魔女が特別なだけだもの。あなたの力は並大抵の妖怪に破られたりする能力じゃない」
「でもっ……」
 でも、破られた。
 どうやらそのことが相当彼女気に触ったようだ。
 私はそんな少女らしい感情を微笑ましく思いながら、ぽんと頭に手を乗せた。ほのかにむずがゆい表情をあらわにする少女に向けて、正直に答える。
「確かにあなたの能力は完璧じゃない。パチェのように魔法使いだったら同じ事をして返されるし、力の強い妖怪だったら止めた時なんて強引に破られてしまう」
「…………」
 少女はぎゅっと服の裾を掴む。
「だけど」そう私は続けた。
「だけど、あなたは『人間』よ。魔女のような知恵を持たない、妖怪のような力も持たない。だからこそ持てる限りの力を尽くして成長していく人間という種族。……少なくとも、私はあなたがそれを出来る人間だと信じてる」
 互いの吐息を感じられるほどの近い距離。少女はきょとんとした表情で私の瞳を見つめていた。
 ……私も慣れないことを言ったものだ。
 そっと頭に乗せた手を離し、少女に背を向ける。そのまま部屋を去ろうとして。
「ああ、そうだ」
 ひとつだけ、少女に言い残すことにした。
「この館に住む上でのルールを一つだけ――厨房と地下室には入らないこと。……悪魔に出会いたくなければね」
 パタン、と扉を閉めた。
 一人きりになって私は、一つ小さなため息を吐いた後――昼寝をするべく自らの寝室へ戻っていった。




  2/お仕事/咲夜


 館の掃除は予想以上に手間のかかるものだった。
 まず第一に、部屋が広すぎるのだ。あの方はフロアだけでいいと言ったけど、それにしても充分広い。雑巾で端から端まで一往復するのに五分もかかってしまうなんて。
 第二に、館がかなり汚い。普段歩く場所はまだしも、あまり見えない隅の方に目をやると埃が一センチも積もってたりする。赤の絨毯はボロ雑巾のように薄汚れていて、水洗いしただけで糸くずにまで戻ってしまった。
 それでもわたしはがんばって掃除をした。出来る限りの埃を箒でかき集めて、絨毯を全て焼却炉へと持って行き、すぐに真っ黒になってしまう雑巾を何度も洗いながら綺麗にしていった。
 道具は全て揃っていたし、掃除に要する水もあの魔女が備え付けたらしい魔法道具からまかなえた。
 でも……。
「時間が足りない……」
 どう計算しても今日中にフロアの掃除を仕上げることは不可能だった。
 出窓からちらりと見える太陽の傾きからして、陽が沈むまで残り一時間ぐらい。レミリアさまはその頃に見に来ると言っていた。
 しかし現状は、六時間ほどかけて目標の半分ほどしか達成していない。
「どうしよう……」
 ちょっと泣きたい。
 そもそも、こんな大きな部屋を一人で掃除するという時点で無茶な話なのだ。そう思い改めてフロアを見渡す。少し綺麗にすればパーティすら開けそうな広い空間。ご丁寧に壇上まであるのが恨めしい。
 それでも、やらなくてはならないのだろう。あの方がわたしに期待するとまで言ってくださったのだから。
「……だけど、どうしてなんだろう」
 どうしてわたしは、レミリアさまを信じる気になったのかな。
 その答えが出る前に、わたしはもう一つの方の答えに気がついた。
 どうしてこんな単純なことに気付かなかったのか――恐らくは自衛の手段にしか使ってこなかったから、こんな平和な時に使って良いと思わなかったんだろう。
 そうだ、初めから――《こうすれば良かったのだ。》
《わたしは時を止めた。こうすれば誰かに壊されでもしない限り陽が沈むことはない。このまま止めてさえいられれば、あの方が来るまでに掃除を終わらせることが出来るだろう》
《それじゃあ早速――と雑巾を手に取ろうとしたら、蹴躓いてしまった。》
《予想通り、身体が重い。そしてそのことを意識し始めた》途端に、止まった時はあっさりと動き始めてしまった。
「……ぐすっ」
 いけない、また泣いちゃいそうだ。
 少し潤んだ瞼を擦りながら、冷静に今の自分の能力について分析してみる。
 ――恐らくは、一度に時を止められるのは二分が限度。その上時を止め続けていると著しく体力を消費してしまう。
 妖怪を倒すときは簡単だった。時を止めて急所を切り裂くのなんて十秒で出来る。
 でも今回はそうはいかない。なんていったってわたしがするべき事は、敵を倒すのではなく掃除をすることだ。もしかしたら残る一時間ずっと時を止めてなくてはならないかもしれない。
「……それでも、やらなきゃ」
 なんと言ってもあの方の為。
 それにあの方はわたしに「時を止めて掃除をしてくれ」と言いたかったのだろうと、ふと気が付いた。だからあの方は、わたしにああ言ってくれたのだ。

 全ては、わたしが成長するために。

《再び時を止める。身体は重い、だけどさっきよりもわたしはやる気になっていた。》
《雑巾の水を絞り、再び床の掃除を始める。腰に付けたナイフの重みは忘れて、今は奉仕することに専念した。》


「どう、終わった?」
 日没から三十分もした頃、ようやくレミリア様が様子を見に来た。
 丁度その頃、わたしは掃除を終えてへとへとになりながら床に肢体を投げ出していた時だった。急に来たものだから畏まることも出来ず、慌ててその場に正座する。
「は、はい! 終わりました!」
 滑稽じみた仕草にレミリアさまは苦笑しつつ、フロア全体を見渡した。そして――
「へぇ……なかなか凄いじゃない」
 満足そうな笑顔をわたしに向けてくれた。
「あ、ありがとうございます!」
 思いもしなかった褒め言葉に、歓喜のあまり思わず両手を膝の前に添えて深々とお辞儀をしてしまった。
 そんなわたしの姿があまりに可笑しかったのか、レミリアさまは大きな声で笑った。
「人間たちの間ではそういう礼の仕方が流行ってるの? いや覚えてないんだったけ……まあいいわ。それよりも良くやってくれた」
 そう言いながら、レミリアさまはわたしの傍に近寄り、頭を撫でてくれた。頭を撫でられるのは気持ち良いんだけど、ちょっとだけこそばゆい。
「それじゃあ食事にしよう。汚れたままの手で食事をしたら駄目だからね」
 悪魔らしからぬ母親のような物言いに、少しだけ苦笑しつつ、「はい」と小さな声で返事をした。

     ***

 食堂、とあの方が呼んだ場所はそれなりに清潔感が保たれていた。
 この館にしてはこじんまりとした――とはいえ数人が食事をする分には充分な広さの部屋に、アンティークの長いテーブルが堂々と置かれている。灯りと呼べる物は食卓の中央に設置された燭台しかなかったが、ロウソクは溶けることなく隅々まで明かりは行き渡っていた。おそらくは魔女の特別製なのだろう。
 わたしはレミリアさまに促されるがままに椅子に座ると、静かな音と共に扉が開いた。見ると、先ほどの魔女が皿を持ってきていた。
 魔女は仏頂面でパンと野菜の入った皿をわたしの前に置いた。やはりわたしがここに来たことをあまり快くは思ってないのかもしれない。
「あ、ありがとうございます。えっと……」
「パチュリー・ノーレッジ」
「えっ?」
「……私の名前よ。別に何と呼んでくれてもかまわないから」
 それだけを言うと、彼女は何も言わずに部屋を出て行ってしまった。
「……えっと……」
 なにか粗相をしてしまったのではないかと困惑していると、レミリアさまはフォローをしてくれる。
「まあ、パチェはわりと気難しいんだ。あるいは自分の時間が取られるのをあまり面白く思ってないのかも知れない。……ただ、悪いやつでないことは確かだから、仲良くしてあげて。魔法の師事なんかを頼めば、きっと得意がって教えてくれるだろうから」
 わたしは頷いた。悪い人でないことは確かな事なんだろう。そうでなかったら、表情は硬いにせよ、わざわざ食事を持ってきてくれたりするはずがない。
 食事として出されたのは、いたって普通なコッペパンと野菜だった。質素と言えば質素だが、健康的と言えば健康的な食事。もしかしたらこの館の住民はみんな菜食主義者なのかもしれない。
 とはいえ、いたって普通な、というのはあくまで食料的見地からであって、トマトやレタスが丸々一玉皿に置いてあるのが正しい食事とはあまり思えなかった。
 わたしがその食事を不思議に眺めていると、レミリアさまは苦笑いを浮かべる。
「あー……不器用なんだ、パチェは」
 その言葉に、わたしは心の底から同意した。

「あの……食事でしたらわたしが作りましょうか?」
 コッペパンを頬張りながらわたしはそんなことを聞いてみた。コッペパンはわたしの口には少し大きく、少しずつもふもふとして食べなければならなかった。
「いや、いいんだよ。咲夜には他の色々なことをやってもらわなくちゃいけないんだから。食事の時ぐらいは休みなさい」
 レミリアさまはそんなわたしの姿を頬杖をついて眺めながらそんなことを言った。心なしかどこかにやけてるようにも見える。
 レミリアさまが喜んでくれているのはかまわないんだけど、ずっと見られてると恥ずかしい……なんだか咲夜、キュンキュンしちゃいます。
 照れてしまって少しばかり顔を伏せる。そこで食卓の上を見たときに、ふと気がついた。
「レミリアさまはお食事なさらないのですか?」
 わたしの食事する姿を見てるばかりで、一向に食べる気配を見せない。
 するとレミリアさまは、なおも多福感に包まれたような表情で口を開く。
「うん、なんていったって咲夜が幸せそうに頬張る姿を見ているだけでお腹が一杯だもの」
 そんなことを言われて、わたしは顔が真っ赤になってしまうのを感じた。この感覚は、なんとなく恥ずかしいだけじゃないような気もする。
「で、でしたら……」
 なんとなく、気分が上気してしまったからかもしれない。
 レミリアさまは首をかしげた。わたしはいつもよりうつむき加減に、とびっきり恥ずかしいことを言ってしまった。
「わたしの粗末な顔でよろしければ、どうぞ心行くまでお召し上りください」
 なんとなく、時を止めてもいないのに、止まったような気がした。
 次の瞬間、レミリアさまが椅子から転げ落ちて悶えるように笑っている姿を見て、真っ赤っかになりながらトマトをかじった。
 トマトは瑞々しく、そして、ほんの少しだけ甘かった。




  3/悪魔に会った日/咲夜


 あれから一ヶ月の時が過ぎた。

 館の中はおおむね掃除が終わり、わたしが来た頃と比べれば見違えるほどになった(わたしが来た頃がよっぽど酷かったというのもある)。
 歩くだけで足の裏が汚れた床を完膚無きまでに磨き上げ、薄手のろうでコーティングした。天井の隅にはびこっていたクモの巣は無くなり、カビくさかった部屋には新鮮な空気が流れるようになった。
 他にも変わったことはある。何よりの変化はわたしの服装だ。今まで着ていたつぎはぎだらけの服とは一転して、真新しい真っ白な給仕服を着ている。
 ある日、レミリアさまが嬉しそうにこの服を持ってきたのだ。
「これはメイ……給仕服といって、お手伝いさんが着る服なんだ。あなたに丁度良いサイズの物を手に入れたから着てみてくれ」
「それはかまいませんけど……どうして息が荒いんですか?」
「いやなに、走ってきたからな」
「それと……このカチューシャと猫のしっぽみたいな物は何ですか?」
「やる気の出るコスチュームだ」
「…………」
「おもに私の」
「…………」
 だからわたしは給仕服だけを着用している。
 少しずつこの館での生活にも慣れてきた。相変わらずパチュリーさんのことはよく分からないし、この館でも足を踏み入れたことのない場所はあるけれど、少しずつそんなことにも慣れてきた。
 たとえわたしが失敗してもレミリアさまは、怒ることなく丁寧に誤りを指摘してくれた。たまに変なことは言うけれど、それでもわたしが本気で嫌がるようなことはしない。
 わたしの新しい生活は、とても楽しいものだった。


「だからね、私は言ってるのよ。一度この子を調べさせてくれって」
 その日、珍しく食事にはワインが出されていた。
 そしてこれまた珍しいことに、食事の席にパチュリーさんも同席している。パチュリーさんはお酒に酔ってるのか、それともこれが素であるのか、わたしを指さして物騒なことを言っていた。
「だから駄目だって。あなたに任せたら骨どころか灰さえも残らないじゃない」
 ワイングラスを優雅に片手に持ちながら、呆れたようにそう言い返すのはレミリアさま。どうやらこちらも酔っているらしく、顔が少し紅く染まっている。
 パチュリーさんはどんと机を叩く。
「そんなことしないって! ちょっと身体能力とかを調べるだけよ」
「そのちょっとが問題なんだよ……この間ニワトリを七面鳥にしようとしたらトーテムポールになったじゃないか。あれを片付けるのは大変だったんだから」
 どうすればそんな面白現象が巻き起こるんだろうか……。
「それにこの子の身体を調べるなんて駄目だ。この子の身体を見ていいのは私だけなんだからな!」
 それって結構危ない発言な気がしますが……。
「まったく……ロリコンもほどほどにしないと捕まるわよ」
「大丈夫さ、性癖だけで捕まったりはしない」
 いえ、レミリアさま実行に移そうとしてましたけど……。
 わたしはそんな二人の会話を、何も言わず食事をしながら眺めていた。
 本日のメニューはフライドチキンとキャベツの千切り。一週間前よりは料理だったけど、相変わらず豪快なセットだ。
 するとレミリアさまは進展のない会話に飽きたのか、わたしに向けて。
「咲夜はワインを飲まないの?」
 そんな物騒なことを尋ねてきた。
「い、いえ……。わたしはまだお酒は飲めないので」
 両手を振って拒否反応を示す……のだけど、いつの間にかパチュリーさんが横に来てわたしのグラスにワインを注ぎ始めた。
「駄目よ、こういう時は皆でお酒を飲むものだから。一人だけ素面でいたら、後片付けを任されて面倒なのよ」
「そんなこと言われても……」
「それじゃあ、こういうのはどうだ?」
 渋っているわたしに向かって、レミリアさまはグラスに入っている赤ワインを傾ける。
 何事かと思い眺めていると、レミリアさまはワイングラスに軽く口づけをし、挑発するような口調で言った。
「この紅い葡萄酒は我が血であり、誓いである。我が血を頂く者をのみ臣下と認め、永久に傅くことを認めよう」
 ずるいと思った。
 ……そういう風に言われたら、断れないじゃないですか。
 わたしはそっとグラスを手に持ち、注がれたワインを見る。一つ深呼吸をしたら、意を決してワインを一気に飲み干した。
「ん……く」
 空になったグラスを机に置く。アルコールが体中を巡り、身体が熱くなっていくのを感じながら、一言。
「にぎゃいです……」
 呂律の回らない舌を出して、感想を述べた。
 レミリアさまは何度も床を叩き、悶え苦しんでいる。
 パチュリーさんは明らかに引いていたが、何も言わずに、ただ溜息を吐いてグラスのワインを飲み干した。

     ***

 みんなでの食事がお開きになると、自分の部屋に戻りすぐに眠ってしまった。
 夜中に目が覚めたわたしはうっすらと月明かりの差し込む部屋の中、一人なんとも言えない感覚に陥っていた。
 あの時飲んだワインが頭をぐらんぐらんと揺らしているというのもある。だけど、それよりは興奮の方が大きかった。
 ああ、これでようやくわたしはレミリアさまに臣下として認められたんだ。
 いつも不安だった。果たしてこんなことだけでレミリアさまのお役に立ててるのかと。わたしはここにいて良いのかと。
 だけど、今日やっとこうして認められた。そのことがわたしの中に太陽のような大きな喜びをもたらしたのだ。
「でも、頭いたい……」
 ……ただ、そうはいっても、あのワインのアルコールはわたしにとってあまりにも刺激の強いものだったわけで。
 わたしは水を飲もうと廊下に出た。水を飲むだけで、そしたらもう寝てしまおうと。そう思っていた。


 廊下にはほのかに月明かりが差し込む程度で、それを除けば明かりのようなものは何もない。
 レミリアさまは夜の間は何をしてすごしているのだろうか? 一人廊下を歩いていてふとそう思った。明かりが無いということは何も夜中に廊下を徘徊しているわけではあるまい。一人きりの部屋で何をしているのだろうか。
 そう考えると少し寂しい気がした。今度昼間にぐっすり眠って、レミリアさまと一緒に夜を過ごそう。途中でわたしは眠ってしまうかもしれないけど、そうした方がきっと良いはずだ。
 そんなことを思いながら歩いていると、ようやく水道へとたどり着いた。パチュリーさんの魔法のおかげで、ここからはいつも綺麗な水が出てくる――はずなのだが、いくら蛇口をひねっても水が出てくる気配はない。
「……あれ?」
 もしかしたらパチュリーさんが寝てる間は作動しないのかもしれない。こんな夜遅くに起きたことがないから気付かなかったんだろう。
 なんとなく――有るはずのものが無いことを不気味に感じて、窓の外を見た。
 窓の向こうでは、少し欠けてしまった紅い月が、青々と夜を照らしている。
「…………」
 軽く身震いがする。
 不安をかき消すように首を横に振ると、ふと廊下側の一室に明かりがついてることに気付いてしまった。
「あっ……」
 キッチンだ、と思った。
 厨房なら水ぐらい飲めるかもしれない。入ってはいけないと言われた部屋に忍び込む背徳心を抱きつつも、途方もない喉の渇きを感じていたわたしは歩みを進めていった。

 寝ぼけているときには気付かなかったが、夜の静かな廊下を歩いていると足音が反響している。
 そのことは良い。それはこの廊下にわたし以外いないという証明なんだから。問題なのは、この廊下に誰かが居た時だけ。
 夜の寒気に手を震わせながら、キッチンの扉を開く。ロウソクに火がついていたが、中には誰もいない。少なくとも、もう誰も。
 蛇口をひねると、案の定そこからは水が出てきた。それを手近にあったコップで掬うと一気に飲み干した。
 さあ、ここにもう用はない。早く自分の部屋に戻ってぐっすり眠ろう。わたしは元々ここに来てはいけなかったのだから。
 そう思っても、どうしても足が動かなかった。理由は分からない。ただ、良くない感じがヒリヒリと胸を締め付けている。
 理由も分からない葛藤にうだうだしていたから、わたしはそれに気付いてしまった。
「冷蔵庫の扉が開いてる……」
 一番上に大きな氷を入れて冷やしておく、氷室にも似た冷蔵庫。採った食料を腐らないよう保存しておく場所。
 開いてる物は、閉めないといけない。
 そんな言い訳をしてわたしは冷蔵庫に近づく。好奇心はあった。でもそれ以上に恐怖があった。
 その恐怖を否定するために、わたしは冷蔵庫を閉めに行った。心臓の音が早鐘のように鳴っている。肺に空気が伝わらず、上手く呼吸もできない。でも、見ないと。
 そして冷蔵庫の扉に手をかけた時、わたしは思ってしまった。

 ――あの方の言った悪魔というのは、ここにあるものと、ここにあるものを食べる者の、どちらのことを言うんだろうか――

 目が合った。
 冷蔵庫になど居るべきでない、あるべきでないものと、目が合ってしまった。
 初めは動けなかった。次の瞬間には吐き気がこみ上げてきた。全身の血潮が逆流して世界がひっくり返って、脳より下の感覚が一切無くなった。
 思わず立っていられなくなり座り込んでしまった。一刻も早く逃げ出したい。でも逃げだそうにも足が動かない。
 ようやく吐き気が収まると今度は涙が出てきた。いくら止めようと思っても止まらない。身体のどこかがコワレてしまったみたいに。

 ――わたしはどうして泣いてるんだろう――

 ――食料になってしまったこれに同情してるのかな――

 ――それとも、レミリアさまがこれを食べてることが悲しくて泣いてるのかな――

 頭痛も涙も吐き気も目眩も、全部無くなった頃に、後ろから声が聞こえてきた。
「入ってきたら駄目だって、言ったじゃない」
 怒るような、悲しいような、聞き慣れたその声。
 振り向くことは出来ない。わたしには、それだけの力も残されていなかった。
「誤解して貰ったら困るけど、それは罪人なんだ。私にはある伝がいてね。そいつに里の人間を殺さない代わりに重い罪を犯した者を貰っているんだ――だって、人間を食べないと生きられないからね、吸血鬼は」
 わたしは何かを答えようと思った。なんでも良いから言おうと。言わないと食べられちゃうんじゃないかと。
 でも言えなかった。唇すら動かなかった。だってどうすれば言えるのかなんて分からなかったから。大好きだった相手に、命乞いの言葉なんて。
 吸血鬼が諦めたように溜息を吐く音が聞こえる。
 そしてわたしの首筋に、そっと冷たい何かが触れた。
「ひとつだけ、信じて欲しいことがある」
 それが吸血鬼の指先だと気付くのに、少し時間がかかった。
「私は絶対に、決して、あなたを食べたりしない」
 その冷たい指は首筋を這い、離れると、彼女の腕が巻き付けられた。
「あなたが何を思っても、何をしても――喩え私を殺したとしても、私はあなたを食べたりなんてしない。それだけは誓って言える。カミサマにだって」
 だから、泣きやんで。
 すぐ近くの耳元からそう聞こえた時、わたしはようやく自分がまた泣いてることに気がついた。
 それでも涙は止まなくて、抱きしめられてる間、ずっとわたしは泣き続けていた。

     ***

 翌日、わたしは仕事を休んだ。
 レミリアさまには体調が悪いと断っておいた。昨日のことがあったからか、レミリアさまは何も言わずに了承してくれた。
 その間わたしはずっとベッドに横になっていた。眠らずに、眠れずに、時間が過ぎるのだけを待っていた。
 昼頃になり、レミリアさまが寝静まりパチュリーさんが本を読み耽っている時に、わたしは窓から外へ出た。

 わたしはここに来た時の服装で外に出た。靴も履かず、手荷物はナイフだけ。
 あの給仕服を汚したくなかったというのもあるかもしれない。でもそれよりは、後ろめたさの方が勝っていたと思う。
 今のわたしの行動は、あの方に対する裏切りだ。
 それは許される行為ではない。でも今はあの館にいたくなかった。しばらくすればまた戻りたくなるのか、それとももう帰らないつもりなのか。それはわたしにも分からない。
 いつの間にかわたしは森の中を駆けだしていた。
 昼間の森は妖怪が見あたらない、比較的のどかな風景だった。思えばあの館に来てから外に出るのは初めてのことだ。
 わたしは元のわたしがどんな生活をしていたのか覚えていない。記憶がないという感覚に似ている。元々そんなもの無かった、ということもあるかもしれない。
 だから、わたしにとって世界とはあの館そのものなのだ。それ以外には何も知らない。あの館だけでしか生きられない存在だったのだ。
「そうだった……はずなのに……」
 いつの間にかわたしは足を止めていた。もう一歩も歩きたくない。このまま夜になって妖怪の餌になってもいいとさえ思った。
 その時だった。
「おい、子供がいるぞ!」
 生まれて初めて、わたしは生きてるニンゲンに出会った。


「大丈夫そうだ。ショックは受けているが、草で切った足首を除けば怪我はしてない」
 わたしを見つけた男は、ほっと胸をなで下ろした。
「それにしてもびっくりしたぜ、こんな森の奥で子供に出会うなんてな」
「しかしここから館までそう距離は無いじゃないか。ひょっとしてあそこから逃げてきたとか……」
 男達はわたしが無事だと聞くと、安心したように談笑しはじめた。五六人の男達はみんな屈強な体つきをしていて、手には農具を持っていた。
 わたしはわけが分からずにきょとんとしていると、そのうちの一人がわたしに尋ねた。
「……なあ、お嬢ちゃん。ひょっとしてあの館から来たのか?」
「あの……館……?」
 男は頷く。
「そうだ。あの忌まわしい吸血鬼が住んでる、コウマカンっていう不気味な館だ」
 吸血鬼、というのはレミリアさまのことなのだろう。
 わたしは頷くと「やっぱりか」とみんな苦々しく口にした。見ると男達が手にしているのは誰も彼も鍬のような重々しい道具を手にしていた。これから畑を耕すというわけではないのだろう。
 リーダー格らしき男はわたしの目の位置に合わせるように膝をおろすと、丁寧な口調で話し始めた。
「俺たちが来たからにはもう大丈夫だ、安心してくれ。僕たちはこれからあの吸血鬼を倒しに来たんだ。だからもう、あいつらから逃げる必要はない」
「たおす……?」
 その言葉の意味が分からずに、きょとんとする。
「ああ、そうだ。あいつらが苦手な昼のうちに襲撃する。寝込みを襲えばあいつらだってひとたまりもないだろう。大丈夫さ、いざという時のためにニンニクだって食べてきた」
 それは無理だと思った。わたしはレミリアさまの怖さと強さをしっかりと分かっている。いざ戦えば、どんなお守りだって役に立たず、この人達なんて一瞬で殺されてしまう。
「……どうして倒すんですか?」
 それでもわたしは何も言わずに尋ねた。すると男は「どうしてそんな質問をするのか分からない」といった具合に首をかしげた。
「あいつらは危険な存在だ。今は大丈夫だとしても、いつ気まぐれに村を襲ってくるか分かったものじゃない。……俺らはもうそんなビクビクして暮らしたくない。だから、やられる前にやってやるんだ」
 酷い理屈だった。レミリアさまは何もしていない。弱い者がただ脅えて殺してしまおうと、それだけの話。
 わたしの中では二つの感情が渦巻いていた。この人達なんて殺されてしまえという思いと――誰にも死んで欲しくないという間違った思い。
「もちろん君をそんなことに巻き込んだりはしない。一人付き添わせて里へ帰らせるよ。君がどんな思いをして今ここにいるのかは知らないけど、もう二度と怖い思いはさせない。君のお父さんとお母さんも見つけてやる。なんだったら僕が養子として引き取ったって良い」
「だからもう、怖い思いなんてしなくっていいんだよ」
 だけど、今まで否定的だったわたしの思いは、その言葉にとまどってしまった。
 この人たちについて行けば、わたしは普通のニンゲンとしての暮らしを取り戻せるのかも知れない。この人達を思い留まらせて村に帰らせれば誰も死なずに平和に過ごせるかもしれない。
 あるいは、わたしだったら――レミリアさまに殺してもいいって言われたわたしだったら、レミリアさまを殺してしまえるかもしれない。
 どくん、と胸が高鳴る。
「……あのっ」
 いつの間にかその思いは声に変わり、口に出していた。
 男達はその様子を不思議そうに見ていた。ぼんやりと、子供が何を言い出すのか想像もつかないように。
「……わたしは、戻っても良いんですか?」
 もしかしたら、普通の人間に戻れるのかもしれない。
 人間達と、笑って、泣いて。そんな普通な暮らしに戻れるのかもしれない。
 ポケットの中からナイフを取り出す。鈍く光る銀製のナイフ。こんな物を持たずにすむそんな生活に、わたしは戻れるのかもしれない。
「わたしは、もう、戻っても良いんですか?」




 ――だけど――


 ――わたしの世界は、いったいどこにあるんだろうか――





  プロローグb/夜のお花見/咲夜


「今夜は月が綺麗ね」
「そうですね」
 私とレミリアお嬢様は森の奥へと訪れていた。
 夜の森は本来薄暗く、視界が悪いはず。だがこの日に限っては満月が道を照らしてくれているおかげで絶好のお花見日和となっている。
 いつもならこんな満月の日には妖怪が沸いて出てくるのだが、今はそんな気配すらない。当たり前だ。誰もこんな日に吸血鬼に出会って自殺したがる者などいない。みんな隅の方でこっそりと酒盛りでもしているのだろう。
 桜の花は見事なほど満開に咲き誇っていた。森の中でもこの一角だけは春には桜が咲く。それを見に来るのが私たちの毎年の楽しみの一つだ。
 今日は珍しく二人ともお酒に酔っていなかった。いざとなれば私の空間から持ってくることも出来たが、そんな必要も無いだろう。月夜に舞う桜の花びらだけで充分に酔うことは出来た。
「それにしても珍しいですね、二人きりでお花見なんて」
「そうだな。パチェは忙しそうだったし、それに……二人で話したいこともあったからな」
「指輪でも渡してくださるのですか?」
「それはまた今度だ」
 今度くれるんだ……どきどき。それとなく薬指のサイズを教えておこう。
「もう少し風情のある話だ」
 そう言って月を見るお嬢様の横顔は……どこか、儚げな月の様子に似ていた。


 桜の花びらは月の光に撫でられて、白く舞い続けていた。
 音もなく吹く風は桜の木を揺らし春の景色を彩っている。春の景色をここまで鮮やかに描くことが出来るのは、桜の他にはないだろう。毎年桜は春に訪れて、紅い色を落としていく。たまに弾幕を落とす妖精も訪れるが、それも一つの風物詩だ。
「そういえば咲夜、桜がどうして紅く染まるか知ってる?」
 しばらく歩いていると、ふと突然お嬢様はそんなことを言い出した。
「きっとみんなに見つめられて照れているんですよ」
「話を逸らしたい時に冗談を言うのは咲夜の悪い癖よ」
 どうやらばれているらしい。
 もちろん私だってお嬢様の言いたいことは分かる。でも、なるべくなら話さずに済ませたいと思っている事柄だから。
「桜の木の下には、死体が埋まっているの」
 歩いていると、そこが見覚えのある場所だと分かった。いや、初めから分かっていたのかも知れない。
 忘れもしない、忘れられるわけがないあの日。
「死体……ですか」
 でも私はとぼけることにした。もちろん、すぐにばれることは分かっている。
 私の疑問符に、レミリア様は頷いて答える。
「うん。その少女は穴を掘って死体を埋めたんだ。それも自分の手で掘って。鍬を使えば良かったのにね。みんな帰ってきた少女が泥だらけの格好だったから、すぐに何かあったことは分かったそうだよ」
 その少女はなんて愚かだったんだろう。動揺していたとはいえ、そんなことさえ思いつかなかったなんて。
 しかも少女の手で掘れる深さなんてたかが知れている。人間の身体は思うよりもずっと大きく、幼い子供の手で掘りきれるはずがない。
 だから、見えているのだ。白い骨が。
 お嬢様は何も言わずにその土を掘り返し始めた。すると出てきた骨は一つだけではない。四つも五つも、その時彼らが手に持っていた農具さえもが土の中からひょっこりと出てきた。まるで消えない罪がそこに残っているかのように。
 私はもう何も言わなかった。何も言わずにその一挙一動を見つめていた。言葉にしてしまえば嘘になりそうで。本当がばれるのが怖くって。
 お嬢様は土を掘り返すことに飽きると、泥のついた手をハンカチで拭った。私がそれをしようとすると、そっと首を横に振った。
 そして混じり気のない紅い瞳が私を射抜く。殺気にも似たその視線は私のことだけをじっと見つめていた。
 口から出てきたのは、たった一言。


「どうして殺したの?」


 七年前と同じ問いかけ。
 でも、七年前とは違う意味合いを持つその言葉。

 私は大きく息を吸う。問いかけに対する返事を考えを選び出す。カゴの中から最も良い林檎を探すように。
 もしかしたら私は、その言葉を待っていたのかもしれない。だって嘘偽りのないその返事は、七年前からカゴの奥底にずっと眠っていたんだもの。
「私の答えは変わりません」
 それは、あの時のわたしが出した、一つの答え。
「お嬢様が何を思われても、何を為されても、喩え殺されてしまおうとも。私は生涯従順なるお嬢様のメイドです――この世界の悪魔に誓って」
 だから、わたしはずっとあなたの傍にいます。


 その言葉を乗せた風は、桜の花びらと共に彼女の元へと届く。
 彼女は目を瞑り、その風を確かに感じた。姿形は変われども、いつまでも変わることのない七年を行き来する永遠の風。
「そっか……答えは変わらないか」
 そんな言葉と共に出たのは、安堵の吐息。
「はい、変わりません」
 二人で一つの約束は、彼女と少女の世界を繋ぐ。
 そこで彼女はとびっきりの悪戯を思いついたように笑みを浮かべた。少女に向けて右手の甲を差し出すと、あの時の言葉の続きを口にした。
「なら私は認めよう。十六夜咲夜が私のただ一人の臣下であることを。だからあなたは誓いなさい。その命続く限り、永久に私に傅き、共に歩むことを」
 彼女が何をして欲しいのか察した少女は、思わず微笑み――そして恭しくひざまずき、その手をとる。
「誓います。健やかなるときも、病めるときも、これを愛し、これを敬い、レミリア様の傍に在ることを」
 少女は彼女の手の甲にそっと口づけて、忠誠を誓った。




 誰もいない夜の森。

 ぽっかりと浮かんだ紅い月が、二人を深々と照らし続けていた。






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