べーさく



 召還されやってきた書庫には、誰もいなかった。

 姿が見えないだけかと思い見回してみたが、やはり何の気配も無い。いつもの書庫に召還されたのは間違いないので、あの二人のどちらかが呼んだのでしょうが……。

「私を来させておいて放置するとは、あのクソタレ女……」

 どちらが召還したにせよこんな台詞を聞けば飛んでくるはずだが、冷たい部屋に独り言が木霊するだけだった。
 となると本当にこの部屋には誰もいないようだ。見れば魔方陣が中途半端に開いていたので、予期せぬ形で人間界と繋がってしまったのでしょう。
 アクタベ氏ならこのような不完全な召還を行うとは思えない。となると……。

「……やれやれ、さくまさんにも困ったものですね」

 このまま帰ってしまおうかとも思ったが、イケニエも貰わずに帰ってしまうのは悪魔としてのルールに差し障る。彼女が戻るまで待つことにしましょう。
 とはいえ下水道ならともかく、ただ陰湿なだけのカビ臭い部屋でじっとしているのも退屈だったので、事務所で帰りを待つことにした。
 さくまさんのカレーも残ってるかもしれませんしね。

   ☆☆☆

「なんや、べーやんも来たんかいな」

 事務所のソファーでだらしなくも寝転がっていたのは、アザゼル君だった。

「アザゼル君もいたのですか。君もあの魔方陣から?」
「あの魔方陣ってなんやねん。ワシはいつも通りさくに呼び出されて来ただけやで」

 ふむ、となるとあれはアザゼル君を呼んだ後に描いた魔方陣のようですね。何故か描きかけで止めてしまったようですが……。

「まあいいでしょう。それよりも私を呼ぼうとしたということはカレーがあるはず……」

 そう呟きながら、私はカレーの匂いがする方へと向かった。見なくとも分かるこの香ばしい香り。隣の部屋からでも漂ってくるこの芳醇な匂い。事務所に備え付けられた簡単なキッチンへ向かうと、鍋にはたっぷりのカレーが……。

「あ、カレーならもう食うてしもうたで」

 なかった。

「私に黙ってカレーを食べるとはいい度胸ですね……!」
「だ、だってべーやん来るって知らんかったし! 文句なら微妙な量のカレーしか用意しとかんかったさくちゃんに言ってな!」
「む……それもそうですね」

 この男に人のためにカレーを残しておくなどという思いやりを期待するだけ無駄か……。

「それで、そのさくまさんはどこにいるのですか?」
「そんなん知るかいな! アクタベはんと一緒にどっか行ったきり帰ってきませんわ」
「アクタベ氏と、ですか……」

 ふむ、事務所でならともかく二人でどこかへ出かけるとは珍しい……。

「ワシを呼び出しといて二人でデートとはどういう了見じゃい! しかもアホさくは部屋の掃除しといてとか抜かしおるし! あの女悪魔をマスコットキャラとしか思ってへんとちゃうか!?」
「見たところソファに寝転がってただけのようですが」
「掃除なんてするかいな! カレー食べて腹膨れたらおねむの時間やっちゅーねん!」

 そう言ってアザゼル君は再びソファでごろごろと眠りだした。
 そうやってさぼっていればまた仕置きされるだけだというのに……。呑気そうに眠りこける友人の姿に呆れながら、向かいのソファに座った。
 アザゼル君も再び寝てしまったようで、事務所で特にすることもない私はソファでさくまさんの行方について考えを巡らせた。
 さくまさんがアクタベ氏と何処かへ行った。
 それを聞いて、珍しい事だな、とまず思った。
 さくまさんがアクタベ氏の使いっ走りに行くことはあっても、一緒に行く姿なんて見たことない。それもアザゼル君を置いていったということは二人きりでだ。
 私達に仕事を任せる前に下調べに行ったとか……いや、いつもならそんな手間をかけて仕事をしたりしないし、何より仕事ならさくまさん一人で行かせるはず。
 いくらアクタベ氏がさくまさんに甘いといっても仕事は別だ。氏はさくまさんを一流の悪魔使いとして鍛えようとしてるはずだから手を貸したりなどするはずがない。

「まあ、アクタベ氏も謎の多い人ですからねぇ……」

 そもそも私の呪いをもろともしないしないあの悪魔的強さ、人間かどうかさえ危ういものだ。
 ……あるいは。と思った。
 あるいは、私たちが見てないだけでいつも二人はこうして出かけてるのかもしれない。
 私たち悪魔は呼ばれなければ出てこられない。都合がいい時だけ呼ばれ、頼られるだけの存在だ。
 都合が悪い時――たとえば、二人きりになりたい時なんかは呼ばなければ良いだけで、その間のことは私たちには知るよしもない。
 そもそも、氏がさくまさんにだけ優しいのもおかしいのだ。いくら才能があるからといって我々が、あるいは他の人間がアクタベ氏に強気に出れば殺されたとしても文句は言えまい。
 それをあの女はアクタベ氏の頼みを断ったり、逆らったりしても仕置きを受けることすらない。あの優遇を考えればたとえば、たとえばそのような関係であったとしても、おかしくはない。
 といっても、アクタベ氏とさくまさんがそういう関係である姿は想像しづらいですが。そうとも、氏とあの女では釣り合いが……。

「……ふん、何故あの女のことなど……」

 そう思い彼女について思いを巡らせるのを止めようとした。
 そうとも、どうしてあんな女の事をこんなにも考えなければならないのか。
 魔界のエリートである私の契約者としては、さくまさんには淑やかさというのが足りないのだ。
 頭は悪くないのかもしれないが、考え方は幼稚な上金には小汚いし、力尽くで命令しておきながらいざ仕事を失敗すれば自分の無力さを我々のせいにして押しつけてくる。
 そもそも我々に媚びようとも敬おうともせず、対等だと思い込んでるところが腹立たしい。普通の人間なら便利に扱える私たちを神の如く崇めるか、あるいはアクタベ氏のように道具のように扱うかどちらかだというのに。
 ……まあ、情に弱い彼女に私たちをそのように扱えるとは思えないですがね。いつだって思考や欲望などより感情に従って行動して。モロク君が亡くなった時など見ていられないほど泣き腫らして。
 彼女は悪魔でも人間でも関係なく、悲しいことがあったら泣いて、腹の立つことがあれば怒って。会って間もないモロク君でさえあんなにも悲しんでくれていたのだ。

 ああ、まったく。

 私が死んだと思った時、さくまさんはどんなことを想ったのだろう。

「……腹の立つ女、ですね」

 ベルゼブブである私が、たった一人の人間の為に悩んでしまうだなんて。
 私の『暴露』の能力を使ってしまえば、彼女が何を考えてるのかなんて簡単に分かってしまうはずなのに。
 情けなくも、彼女の本心を知ってしまうことを、何よりも恐れている。人間の醜い本性という物を幾度となく見てきたからこそ、さくまさんのそんな姿を見たくないと。

 でも、もしかしたら彼女なら。

 本心を知ったとしても、さくまさんであれば私は――

   ☆☆☆

「ただいま戻りましたー」

 しばらくして、さくまさんは事務所に戻ってきた。アクタベ氏と一緒に。

「あれ、どうしてもうベルゼブブさんがこっちに来てるんですか?」
「……何を言ってるんですか。さくまさんが魔方陣を書いたんじゃないですか」
「え……あっ! もしかしてあれ繋がっちゃったんですか!? 作ってから呼ぼうと思ってたんですけど……」

 恥ずかしそうに弁解するさくまさん。本当なら魔方陣を放置しておくなんて大惨事にも繋がるから咎めた方がいいのでしょうが……それよりも。

「それより、ですね。さくまさん。いったいアクタベ氏と何を……」
「そうそう、ベルゼブブさんの為に買ってきたんですよ」

 そう言いながらさくまさんはアクタベ氏の元へと駆け寄ると、氏の持っていたビニール袋を受け取りその中身を見せてきた。
 スーパーの袋に入れられたそれは……。

「いちごと練乳、ってこれ……」
「はい、いちごカレーです」

 ……ああ、あのストロベリーマジックとやらの……。

「ベルゼブブさんも気に入ってくれたみたいでしたからまた作ってみようかなって。そしたらアクタベさんもお腹空いてたらしいので買い物に付き合ってもらったんですよ」
「……そう、でしたか」

 なんだか、真面目に悩んでた私が馬鹿みたいだ……。

「……どうでもいいが、どうしてこいつがソファで寝てるんだ?」
「へ……あー! アザゼルさん事務所の掃除ちっともやってくれてないじゃないですか!」
「んぁ……なんやさくかいな……昨日モンパンの素材集めしてて寝てないからもうちょい寝かせて……」
「もうちょいじゃありませんよ! しかもカレーまで食べちゃって……一から作り直しじゃないですか!」

 本当に、心配していた私が馬鹿みたいに、アザゼル君を叱るさくまさんの姿はいつも通りで。

「ごめんなさいベルゼブブさん。来てもらって悪いんですがカレー出来るまでもうちょっと待ってくださいね。その後でアザゼルさんと一緒にみんなで事務所の掃除しましょうね」

 屈託のない笑みを浮かべながらそう語りかけてくる彼女の瞳には、何の濁りもなく。暴く必要なんてないぐらい真っ直ぐで。
 だからこそ私は、きっと許してしまうのだろう。

「……かまいませんよ」

 悪魔と人間。
 魔界のエリートと平凡な大学生。
 種族は違えど、アクタベ氏と彼女以上に釣り合いが取れずとも、呼ばれればきっと私はこうして出向いてしまうのだろう。

「さくまさんのカレーが食べられるのなら、いくらでも」


 



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