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月が綺麗だから



 姫、起きていますか?

 ……そうですか。それではこれは、私の独り言としてお聞き下さい。……いえ、あまりお気になさらずに。ただ、夜中にふと目が覚めて、とても明るく灯る満月を見ていたら、なんだか懐かしくなってしまったのです。あの頃のことが。そう、地上に来るまでの、姫との思い出が。
 貴方がこの地に降り立ってから、どれだけの時が流れたでしょうか。月日と呼ぶにはあまりに永い歳月。悠久と呼ぶには遠すぎるけど、それを信じさせるぐらいにとても多くの星霜。
 それでも、姫と共に過ごした日々の事を、私は一日たりとも忘れたりはしません。

 姫が地上に降りてみたいとおっしゃった時、私は驚きました。それよりもっと驚いたのは、その為に蓬莱の薬を作って欲しいとおっしゃった事です。
 初めはそれもいつもの冗談かと笑って流してしまいました。だってそれは、今までのおねだりとは次元が違うものでしたから。叶えて差し上げれば確実に咎を受ける。気まぐれでは済まされない永遠の罪悪。姫も本当にそれを望まれることはないだろうと、その時は思ってました。
 それでも、一週間経とうと、一ヶ月が過ぎようと、一年が終えようとも同じ事を望んだ姫の姿を見ているうちに、私はそれが真摯な願いだと受け止めると同時に、どうすれば貴方の気持ちを変えることが出来るだろうかと考えるようになりました。
 ……正直に申します。私は怖かったのです。姫が罪人となる事が。姫が、私の元を離れていってしまう事が。
 それでも、結局は姫の真摯な想いに負けて薬を作ってしまいました。あの時の姫の嬉しそうな表情は、とても見ていられるものではありませんでした。罰せられ地上へと落とされるというのに楽しそうな笑顔を、まるで昨日の事のように覚えています。忘れられるわけがありません。だってそれは、何年もの間私を苦しみ続けてきた笑顔だったのですから。
 月の上に一人残された私は、ずっと姫の笑顔を思い浮かべてきました。本当にこれで良かったのか。姫の事を考えたのなら、もっと良い選択があったのではないか。そんなことばかりを考え、後悔して過ごしてきました。

 そんな歳月が過ぎた頃の話でした。地上から使者を向かわせ姫を迎えに行くという話が出た時、私は自ら名乗りを上げて使者に同行しました。どんな形でも良いから、薬を作ってしまった罪を償いたかったのかもしれません。……もしかしたら、一刻も早く姫にお会いしたかっただけなのかもしれません。兎に角、私が行かなければという想いだけが強く在ったのです。
 屋形に乗り姫を迎えに行く最中、沢山の事を考える事になりました。姫は今どうしておられるのかと。見知らぬ地でやつれてはいないか。心細くいたりはしないか。こんな地に追いやった私を恨んではいないかと。
 恨まれるのは構いませんでした。私が恐れていたのは、姫が傷ついてしまうことです。自らの行いを悔やみ、後ろを振り返ってしまう事です。
 そんな恐れの中、とうとう私達は姫もいる地上へと辿り着きました。穢れた地と呼ばれていたこの星は、穢く、けれど多くのモノに満ちあふれていました。

 そして、そう、姫と再びお会いした時の話です。
 頭の中で思い描いては消していた、そのままの姿の姫が目の前におりました。……いいえ、思い描いたよりも、あの頃よりも姫はずっと美しくなられていました。
 理解しがたい服を身に纏い――今ならあれが地上の民にとって高貴な装束だったと分かりますが、あの頃の私には地上の文化など知りようもありませんでしたから――粗末な道具を持った人々によって囲われた姫の姿を初めは同情するべき光景だとすら思いました。けれど、そんな中にいながらも、貴方の気高さは少しも損なわれることは無かったのです。
 その姿を見て私は至福の感情に満たされました。同時に、その些細な変化が私をより恐ろしくさせました。そしてそれは、私以外の月の民も同じだったのです。
 地上の民は、私たちを見て震え上がっていました。明らかに恐れていたといってもいいでしょう……貴方以外は。
 だって姫は、私たちのことを恐れるでもなく、頼り縋るわけでもなく。月も此処も、まるで同じものかのような眼差しで全てを見つめていたのですから。
 私を見て、姫が何を思ったのか。それは今でも分かりかねます。それでも、あの時貴方が言った言葉は、今だって忘れません。

「ねえ永琳、ここはとっても素敵な場所よ! 空気がすっごく穢れてるの! 作物もあまり上手く実らなくて、誰かが腹を満たせば誰かが飢えずにはいられない。働いても豊かにならない人もいれば、働かなくても捨てるほど富を得られる人もいる。争いは絶えなくて、人はいつも人を疑って、なのに誰も嘘を吐くことを止めようとしない。ね、ここの人たちってとっても貧しいの。いつだって、誰だって、有りもしない幸せに飢えてる。でもね、私、とっても幸せなの! 馬鹿にしてるんじゃないわ。本当に好きなの。好きで好きでたまらないの。ここにいるとね、生きてるって感じる。噛みしめる、って言うのかしら。どっちでもいいわ。きっとね、ここには向こうにない言葉がある。とても古くさくなって古典にでもまとめられてしまった言葉。澄んだ空気に飲み込まれてとても薄くなってる言葉が、ここならどこにでも感じられる。素敵。とっても。私、今更向こうに帰るなんて考えられない。つまらないもの。あっちに戻ったって幸せしかないじゃない。そんなの退屈。退屈で退屈で死んじゃうかも。ねえ、だから永琳……そいつらを殺して、私と一緒に暮らしましょう? 私が知った言葉を、全部教えてあげるわ。ここで。この場所で。ずっと。永遠に」

 そんな風に、今まで見たことも無いほど嬉しそうに語る姫の姿を見て私は――救われたような気がしました。
 その後の事は……姫も覚えていらっしゃるでしょう。
 ……あれから沢山のことがありましたね。ウドンゲがやってきたり、あの人間が蓬莱の薬を飲んでやってきたり……ふふっ、姫は怒るかもしれませんが、あの時の姫の喜びようといったらなかったですよ。
 あの異変の後は隠れ住む必要もなくなって、今までより沢山の人間や妖怪と言葉を交わすことになって。ここの空気に触れて。
 今なら、信じられるような気がします。あの時の姫がおっしゃったこと。その全てを。

 ああ、ですが。姫がおっしゃったあの言葉は、向こうにないとおっしゃったあの言葉は、私は月にいた頃でも、確かに見つけていたような気がします。

 ……おや、姫、お目覚めですか?
 
 ……ええ。そうですね。今夜は月が綺麗ですから。たまには昔のことでもお話しましょうか。遠い遠い、今は昔の話を。



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