料理と花、毒、牢屋



「それじゃあ、この中に入ってね」

 そう幽香さんに案内された場所は、黴の生えた石造りの部屋だった。
 あるいは牢屋。部屋の一面は鉄格子で作られており、灯りになるものが無いのでその向こう側は見られない。片隅に置かれた藁は真新しいものだったがそれ以外に物は置いておらず、窪みのような深い穴があるだけだった。たぶんトイレの代わりなのだろう。使用すればたちどころに異臭を放ちそうな粗末な代物だったが、未だ使われたことがないのか、あるいは風化してしまったのか、不潔な雰囲気はあまり感じられなかった。
 汚くはないがおおよそ人が住めるような場所じゃない、というのが僕の感想だった。目隠しをされて運ばれてきたのでここがどんな場所なのかは分からないが、鉄格子の窓から零れてくる僅かな光を見るに地下ではないのだろう。鉄格子の扉は鍵を開けなければ出ることは出来ず、また窓の鉄格子も腕すら通らない程度の隙間しかないので、そちらから抜け出すのも不可能だ。トイレの穴に入れば逃げられるかもしれなかったが……とりあえず今の僕には逃げる気なんてちっとも無かった。
 僕は、そう、風見幽香さんが大好きだった。
 一目見た時、とてつもなく深い何かに落ちたような快感が迸った。それは今までに感じたこともないような信じられないぐらいの何かだった。幻想郷縁起を読んで風見幽香という妖怪の風貌は知っていたが、彼女がそれとは最後まで僕は気付かなかった。気付いていようが、この想いを止められるわけがなかった。
 とりあえず僕は話しかけた。一回目のその時は、幽香さんはちっとも僕にとりあおうとせずさっさと飛んで去って行ってしまった。二回目に偶然会えた時は、しっしと追い払われてしまった。三回目に彼女の家を特定して訪れた時――幽香さんは呆れたようにため息をついて、言ってくれた。

「アナタの言いたいことはよーく分かった。分かったから、ね、試してあげる。アナタが私のことどれだけ好きかっていうこと。アナタが本当に私のことを好きなのかっていうことを」

 そうして連れてこられたのがこの場所だった。
 でもちっとも僕は怖くなんてなかった。むしろ誇らしいぐらいだった。幽香さんに試してもらえる。それはつまり、幽香さんが僕を好きになってくれるチャンスがあるってことだ。僕は例えどんなことをされようと自分の愛を貫き通す自信があったし、例えどんなことをしてでも幽香さんに好かれようという決意があった。
 気付くと、幽香さんが鉄格子の外に立っていた。微笑むような慈しむような、そんな表情を浮かべながら。

「いざっていうときのために用意しておいて良かったわ。ここね、昔人間が使ってた処刑場なの。公にじゃなくて、こっそりと民間で使われてたものね。だけど世代が変わるうちに人間たちがこの場所のことを忘れて、妖怪たちが隠れ住み始めてた所を追い払って縄張りにしておいたの。まさかこんなに早くに使う日が来るとは思わなかったけどね」

 僕は幽香さんに対して色々な言葉を重ねた。知っている言葉全てを使って幽香さんを褒め称えた。だけど、僕の言葉を耳にするにつれて幽香さんの表情はげんなりとしたものに移り変わっていって。

「あぁ、やめてやめて。そんなの聞きたくないの。ねぇアナタ、言葉を口にするっていうのがどれだけ軽薄なことか知ってる? ふわっと、空気になっちゃうのよ。言葉っていうのはどこまでも綺麗なものだけど、綺麗さしかないの。上っ面しかないのよ。例えばアナタがさっき言ったことを一字一句間違えずに私も言うことが出来るけど、それって本当に同じ中身が籠もってると思う? 言葉を重ねることなんてね、あんまり意味がないのよ。アナタにそんなことをさせるためにこんな所に連れてきたんじゃないわ」

 そう言って幽香さんはどこかへ行ってしまった。
 僕は幽香さんを怒らせてしまったんじゃないかとたまらなく不安になった。同時に途方もない反省を繰り返した。もしこのまま幽香さんが帰ってこなくて僕が死んだとしても、それは当然の報いなんだと思った。
 だけど、幽香さんはすぐに戻ってきてくれた。さっきの弁解をしようかと思ったけど、反省を活かしてやめた。その代わりに僕の注意は幽香さんが手に持っている物に向けられた。
 それはシチューだった。ごろごろとした野菜とお肉がたくさんが入ったとっても美味しそうなクリームシチューだった。黴臭い臭いなんかたちどころに消え去って、部屋の中にシチューの香りが充満した。

「これね、私が作ったの。今作ったばかりだから、きっと美味しいと思うわ」

 幽香さんが作ったと聞いてますます僕の食欲はそそられた。そういえば幽香さんに出会ってから胸がつかえてろくに何かを食べた覚えがない。その味を頭の中に思い描くだけで僕の口の中はよだれでいっぱいになった。
 鉄格子には部屋の中に何かを入れられる蓋があって、そこからお皿とスプーンが入れられた。目の前に差し出されるとシチューはまるでこれから起こる楽しいことの全てのように思えて、我慢しきれず僕はスプーンを握った。
 僕は幽香さんとシチューに向けて食前の挨拶をした。ついでに神様にも祈ってみた。そしてシチューを一さじすくって、僕は。

「それでね、そのシチュー。毒が入ってるの」

 その手を止めた。
 幽香さんの顔色をうかがった。幽香さんは、今までにも増して楽しそうににこにこと笑顔を浮かべていた。

「嘘じゃないわよ。試しに食べてみて、きっと簡単に死んじゃうから。ああでもね、すぐに死んじゃう毒じゃないの。数分間苦しみながらじわじわと内臓から死んでいく毒。月のお医者様から貰ったから、効果は保証するわ」

 幽香さんは、笑いながら。

「そしてアナタは、そのシチューを食べてもいいし食べなくてもいい」

 今まで昂揚していた気分は、いつの間にか溶けた氷のように跡形もなくなっていて、毒入りシチューをすくったスプーンを動かすことすら出来なかった。

「ただし言っておくけど、私はこれから毒の入った料理しか持ってこないわよ。お水も無し。自分でなんとかする分には構わないけどね。つまりアナタは、これから毒入りの食事を食べるか食べないかの選択をし続けるの。もちろん捨てたりしたら駄目よ。ちゃあんと次の料理を持ってくる時に本当にアナタが食べてないかチェックするから。ね、分かった?」

 幽香さんは僕の返事を期待するように首を傾げた。なんとか僕は頷くと、幽香さんはにっこりと笑って。

「分かればいいわ。それじゃあ、今から開始ね。また明日になったら食事を持ってくるから。……ああだけど、やっぱりそのシチュー食べちゃ駄目ね。アナタだと毒入りの料理を食べることが愛の証明だとか言いそうだから。死ぬことは愛することじゃないわ。もし本当に私のことが好きだって言うなら、そのシチューを食べないこと。いい?」

 僕が慌てて頷くと、幽香さんは満足げに微笑みこの部屋から去っていった。そして僕はまた一人になった。
 夜中、毒の入ったシチューを見つめながら一人で色々な事を考えた。
 数時間前まであれほど美味しそうに輝いていたシチューは今ではその名残も残さず、部屋の黴臭さに同化して背景の一つになっていた。
 だというのに、それがこの部屋にあるたった一つの食べられる物だというだけで腹を満たしたいという欲求に駆られた。シチューから目を逸らそうとしたが、他に見るべき物がなかったのでどうしても意識がシチューへと向けられてしまった。あるいは藁を口にすれば空腹を凌ぐことは出来たかもしれないが、それをして幽香さんにが許してくれるか分からなかったから結局何も口にすることは出来なかった。
 本当に欲望に負けそうになった時は、幽香さんのことを思い浮かべた。今日幽香さんが語りかけてくれた言葉、声、笑顔。ありとあらゆる幽香さんを思い出すことでシチューのことを忘れようとした。そしてそれは成功した。
 やがてそうしているうちに眠気が訪れて、僕は藁の上で眠った。夢は見なかった。



 二日目。
 朝が過ぎて、たぶん昼頃になって、幽香さんは再びこの部屋にやってきた。

「ちゃんと食べなかったわね。えらいえらい」

 そう言って幽香さんは言うことを聞いた動物のように僕を褒めてくれた。頭を撫でて欲しかったが、それは贅沢というものだろう。幽香さんが僕のことを偉いと言ってくれた。それだけで僕は報われたような気がした。

「それじゃあ、今日の食事はビーフストロガノフよ」

 だけど、次の新しい料理が運ばれてきた時は、流石に胸を締め付けられる思いがした。
 幽香さんが昨日持ってきてくれたクリームシチューとビーフストロガノフを交換する。再び部屋の中に新鮮な香りが満ち、むせ返るようなその香りに吐き気をもよおした。
 そして、シチューの入ったお皿と一緒に幽香さんは小さな花の咲いた鉢植えを渡してくれた。

「それはね、パンジーっていうお花よ。一日我慢したご褒美。これからも我慢すれば毎日お花あげることにしたから頑張ってね。あ、もちろん食べたりしたら駄目よ。お花を食べたりなんてしたら、もう一生ここに来ないからね」

 僕は、そのパンジーを幽香さん自身だと思って手に抱いた。幽香さんに初めて貰ったプレゼントだった。実際には幽香さんに初めて貰ったのはこの部屋と藁なのかもしれない。だけどそんな余計な考えは蹴り飛ばし、唯々その感動に胸を震わせていた。実際涙すら流していた。
 そんな僕の姿を見て、幽香さんは複雑そうな表情を浮かべていたのだけれど、僕はそれを知るよしもなかった。

 やがて幽香さんが去った後、この部屋にはビーフストロガノフとパンジーだけが残された。
 初め僕はパンジーを見て時間を過ごしていた。パンジーを愛しそうに育てている幽香さんの姿を想像して感涙した。花びらの裏側から葉脈まで隅々観察した。そういしている間は、空腹を忘れられた。
 でもそれからもっと多くの時間が経って、真っ暗で何も見えなくなると、段々と料理の方に意識が向く方が多くなった。その度に花を見て気を紛らわそうとするけれど、最初見ていたほどの関心は湧かず、食欲を満たしたいという気持ちが強くなっていった。
 一昨日の今頃は何を食べたっけか。そう、確かサンドイッチだ。サンドイッチを二つ作って、でも幽香さんのことで胸がいっぱいだったから一つしか食べられなかったんだ。なんて勿体ないことをしたんだろう。今そのサンドイッチがここにあれば、どれだけ僕は救われただろうか。あるいは食べてさえいれば、もう少し今の状態もマシだったかもしれない。
 でも現実は今にしかない。今この部屋にあるのは、藁と、パンジーと、毒の入ったビーフストロガノフだけだ。残念ながらどれも食べられる物ではない。
 しかし食欲よりも深刻なのは水分だった。この二日間ろくに水を飲んだ覚えがない。鉄格子に僅かに付着した朝露を舐めたぐらい。一度尿を飲んでみたが、容器も何も無かったので上手く飲むことは出来ず、何よりしょっぱくて余計喉が渇いた。
 とにかく喉がからからだった。口を動かせばその事を思い出してしまうので、僕はずっと声を出していなかった。幽香さんがいなくなってからだから六時間ぐらいだろうか。声を出さないというのは不思議な気分だった。自主的に出さないのであっても、まるで自分が本当に声を失ってしまったかのような錯覚を起こしてしまった。外から聞こえる音もほとんど無いから尚更孤独に思えた。試しに声を出してみようかとも思ったけど、怖くなってやめた。人間はどれぐらい水を飲まないで生きていられるんだったかと考えながら部屋の片隅で静かに震えていた。
 結局、パンジーの感触を指で確かめながら、ビーフストロガノフを見つめてその日は眠った。気を失ったといった方が正しいかもしれない。時々空腹に目を覚ましたが、しばらく泣いてまた眠った。



 三日目。
 昨日よりも少し遅い時間に幽香さんは現れた。もしかしたら同じ時間だったのかもしれないが、時計も無かったので僕には判断がつかなかった。
 幽香さんが現れると僕はまた少し元気になった。幽香さんの笑顔を見ると僕は元気になれるらしい。ずっとここにいてもらいたいとすら思ったけど、僕のそんな些細な願望は呆気なく打ち破られた。

「本当のことを言うとね、私、アナタのことちっとも好きじゃないの。ちっとも。これから先の事なんて誰にも分からないけど、好きになれる予感もない。そこら辺に生えてる雑草と何も変わらないの。アナタよりお花の方がずっと好き。そのアナタの抱えてるパンジーの方がね」

 その幽香さんの告白を、僕は黙って聞くことしかできなかった。
 落胆を通り越して憤りすら感じた。もちろん幽香さんにではなくお花にだ。嫉妬の余りパンジーの鉢植えを粉々に砕いてしまいたかったけど、幽香さんに嫌われたくなかったのでなんとか思いとどまった。

「でもね、だから私は試してるの。アナタが本当に私のことを好きでいてくれるなら、私もその想いに報いられるかもしれない。この部屋がお花でいっぱいになる頃には、もしかしたら……ね」

 そう言って幽香さんは、アジサイとカレーライスを鉄格子の中に入れてくれた。
 僕は泣いて喜んだ。

 窓から紅い光が刺していたから、たぶん夕方だったと思う。
 誰もいなくなった牢屋の中、僕はパンジーとアジサイを片隅に置いてカレーライスをじっと眺めていた。
 昨日散々いじりまわしたおかげでぐったりとしていたパンジーも、幽香さんがちょいちょいと触れただけですぐに元気になっていた。

「本当はお花自身の力で治した方が良いんだけど、こんな環境だものね。私が治してあげなくっちゃ」

 花には優しい幽香さん。僕はそれを聞いてまたパンジーに嫉妬した。
 僕も花に生まれていたら幽香さんに可愛がってもらえてたんだろうか。そう思うと牢屋の隅っこに置いた花のことがとても羨ましくなった。花になってしまいたいとすら思った。
 いや、花に生まれてたら幽香さんに好きだって伝える事なんて出来なかったはずだ、と思い直した。こんな風に試してもらうことも出来なかっただろう。そう思えば人間に生まれてきたことがとても幸せだった。
 だけど、幽香さんは言ってた。言葉なんか信じられないと。だから僕はこんな風にして試されてるんだ。きっと花になれば無条件に僕のことだって愛してくれただろう。
 でも僕は、結局は人間だ。だから人間として、幽香さんに認めて貰わなければならない。
 その為にはこんなぼろぼろな身体じゃ駄目だ。食事を摂らなければ。そう、これは幽香さんへの愛を貫く為に食事をするのだ。決して愛への背徳行為じゃない。幽香さんのことが好きだからこそ、幽香さんの言いつけを破って食べるのだ。何も矛盾してない。
 はっきり言って、限界だった。目の前に食べられる物があるのに、何も食べられないという現状に僕は耐えきれなかった。本当に幽香さんが僕のことを好きになってくれるか分からない今の状態では尚更だった。とにかく希望が欲しかった。希望を手に入れるには生き抜くことが必要だった。生き抜く為に、目の前の料理を食べる理由を欲していた。
 それに、きっと幽香さんはカレーライスに毒なんか盛ってない。毒というのは比喩表現だ。そうじゃなかったら本当に料理に手をつけてないか確認する必要ないし、単なる脅しに決まってる。例え毒が入ってたとしても、それをぺろりと平らげてしまえばきっと幽香さんも僕のことを認めてくれるに決まってる。カレーライスに入ったじゃがいもが一つなくなったぐらいで気付くわけもない。大丈夫だ。大丈夫だ。大丈夫だ。
 気付けば僕はスプーンでカレーライスをすくっていた。すっかり冷えてしまってお米もべとべとになってしまっていたけど、僕にはそれがとんでもないごちそうに思えた。
 ああそれに、幽香さんが作ってくれた料理が不味いわけなんてないんだから。
 僕は一口でそれを飲み込んだ。味わって食べようと思っていたそれは一瞬で胃の中に入っていき、口の中を通り抜けた後でカレーの仄かなスパイスの味わいが広がり伝わっていき。

 吐いた。

 むせたのかと思った。でも気付いたらカレーライスの皿に胃液を全部ぶちまけていた。まだこんなに身体の中に水分が残ってたのかと感心した。
 まだ吐いた。もう吐く物なんて何も無いのに。胃の中に入った空気を全部循環させ全て洗ってしまわないといられないかのようにぐわんぐわんと腹の奥底が鉈で滅多打ちにされたかのような痛みが駆け巡り痛い痛い痛い痛いそればかりを声に出そうとしたけど何も出ない胃液ももう何も残ってなくておごごごごあああががががががががががががががが。
 毒! 毒! 毒だ! 畜生! 叫びたかった。でも声なんか出なかった。内臓の中で暴れ回る何かが出てこないよう必死に押さえつけながら僕はただ空気を吐いていた。たっぷり空気を膨らませた風船みたいに吐き続けた。吐いた物が鼻に詰まって息が出来ないことに気付いた。舌も上手く動かなくて喉にへばりついてしまった。でも僕はただ胃液とカレーライスにまみれてのたうち回ることしか出来なかった。
 息が出来なくて喉をかきむしった。けれど喉に穴が開くことはなく、皮膚と肉が削れて血が出ただけだった。中指と薬指の爪が喉に突き刺さってはがれてしまったけど、それでも息は出来なかった。
 脳裏にカエルの姿が思い浮かんだ。異物を飲み込んでも胃袋を口から吐き出して洗ってしまえるカエル。僕はカエルになりたかった。複雑な内臓の構造をしてることを恨んだ。胃袋が喉を通らないことを心の底から呪った。頭を地面に何度も打ち付けながら人間に生まれてきたことを後悔した。
 死にたかった。死んでこの苦しみから逃れたかった。頭を地面に打ち付ける。何度も何度も打ち付ける。血は出たけどまだ頭は割れない。地面にへばりついた赤い頭皮と髪の毛を見て僕は驚喜した。ああ脳みそを地面にぶちまけてやれば苦しくないぞ! なんて素晴らしい! こんなこと誰も教えてくれなかった! 大発見! 大発明! 畜生! 畜生!
 でもそうする前に僕は気を失った。酸素が足らなくなって脳が停止してしまったんだと思う。とりあえず気を失ったことで、その日僕は生き存えてしまった。



 目覚めると幽香さんが僕を見下ろしていた。

「目が覚めた? ……食べちゃったのね」

 片方の耳から幽香さんの声が聞こえた。どっちの耳が聞こえてないのか分からなかった。その時はまだ、なんか音が聞こえづらいなぁと思うぐらいだった。

「心配しないで、別に怒ってないわよ。一度ぐらいの失敗で見捨てたりしないわ。誰だって一度は間違えるもの。……でも、間違いは正せる。失敗は繰り返さなければいい……そうでしょう?」

 それが幽香さんだって気付くのには、少し時間がかかった。だって色が真っ白だったから。
 その原因が僕の目にあるって気付くのにはもう少しかかって、状況を把握するのにはまだまだ時間が必要だった。

「はい。今日はビーフシチューとチューリップよ。それと、今回は苦しかったでしょうからお水もあげる。もちろんこっちには毒入ってないわよ。コップ一杯だけだから、大事に飲んでね」

 そう言って去ろうとする幽香さんを呼び止めようとした。喉から出たのは石で石をひっかいたような雑音。それを自分の耳で聞いて、ようやく僕は自分の身体がイカレてることに気付いた。
 僕の声を聞いた幽香は一度だけ振り返ったが、にっこりと笑ってそのまま去っていった。

 幽香が去った後、吐瀉物とカレーライスを全部トイレの穴にぶち込む作業から始めた。
 狭くなった視野では立つことも難しく、ずるずると這いずり回ってかき集める事しかできなかった。道具もなく腕で集めて穴に入れる作業を上手くできず、結果汚れを広めただけになってしまった。が、色が見えなくなっていた僕にはあまり関係なかった。服も吐瀉物にまみれてしまったので一緒にトイレの穴に捨てた。
 そして改めて自分の状態を確かめていった。まず耳を確かめる。どうやら気付かないうちに自分で潰してしまったようだが、右耳を潰し損ねたおかげでなんとか聞こえてるらしい。僕はあの時冷静な判断が出来なかったことをとても感謝した。
 次に目を確認した。どうやら頭を打ち付けてる最中に左目の半分を潰してしまったようだ。おまけに何故か色が全く見えなくなり、僅かに濃淡が分かる程度になっている。鼻の骨は潰れてしまっていたが、臭いが分からないわけではなさそうだ。
 最後に、身体がちゃんと動くかどうか確かめてみた。これは散々だった。全身は絶え間なく痙攣していて、ある程度関節を動かそうとすると串刺されるような痛みが走った。歩くことはおろか、立ち上がることすらまともに出来ないだろう。
 そして僕は泣いた。何故幽香の言いつけを破ってしまったのだろうと途方もない後悔に陥った。幽香は何も嘘なんてついてなかった。本当のことしか言ってなかった。だというのに。僕は一時の誘惑に負けて。幽香の言葉を疑い、信頼を裏切って毒入りの料理を食べてしまった。
 これは当然の報いだ。むしろこれだけの裏切りをしておいて許してくれた幽香に感謝しなくてはならない。これからは幽香の期待を裏切らないよう、誠心誠意尽くそう。そう自分に言い聞かせると同時に、たった一時の過ちでこんな身体とこれから一生付き合っていかなければならないことへの恐怖で、僕は延々と泣いた。
 気付けば泣き疲れて眠ってしまった。時々目が覚めたが、何もせず目を瞑ってじっと耐えた。



 次の日も、幽香は変わらぬ笑顔で料理と花を持ってきてくれた。きっと牢屋も僕もひどい異臭を放ってるだろうに、幽香はちっとも嫌な顔をしないで笑顔を向けてくれた。心なしか、毒の料理を食べる前より優しくなったような気がする。
 日を追う事に牢屋の花の種類は増えていった。同時に、僕が生活出来るスペースも花に奪われていき、今では牢屋の半分が花で埋め尽くされている。
 その間、僕は藁をかじって生きていた。藁が無くなると、その辺に落ちていた耳を引きちぎって、飢えを凌いだ。幽香は僕が大人しくしていると、水を持ってきてくれた。花になった気分だった。
 花になるのは素晴らしいことだった。幽香が望むように暮らしていれば生きることが出来る。そこには道徳も、自由も、常識もない。ただ一方通行のルールがあるだけだ。水を与えてくれなければ僕は死ぬ。幽香の機嫌を損ねてしまえば僕は死ぬ。草木の生えない大地に植えられた花だった。ここから出ようとも考えたが、所詮僕は花だ。自分の足で逃げることなんて出来ない。幽香はそんな僕を植木鉢に移し替えてはくれないけど、水だけ与え続けてくれる。そんなことをしてくれるのは幽香だけだ。あれ、そもそも僕をここに移し替えたのは幽香だっけ? 幽香が与えてくれるのは水なんだっけ?
 ちがうちがうちがう。幽香は悪くない。幽香を信じて何も悪いことなんてない。僕は決して間違った行いをしてるわけじゃない。ああ、幽香は優しいなあ。こんな僕をいつまでも試してくれる。なんて素晴らしい女性なんだろう。今の僕を人間の女が見ても悲鳴をあげて逃げて行くに違いない。歩けない僕の手を支えてくれる人も、耳の不自由な僕の代わりに文字を書いてくれる人も、色が見えない僕のに花の美しさを教えてくれる人もいない。僕は孤独だ。でも幽香は僕がこうしている限りずっと傍にいてくれる。僕には幽香しかいないんだ。なんて素晴らしい世界なんだろう。僕が必要とした女性は、僕にとって唯一の人だったなんて。彼女のためなら全てを捧げられる。そう、何もかも。耳だって、目だって。命だって。
 そして運命の人がやってきた。ここに。この場所に。だってそうだ。僕にはこの場所しかないんだから当たり前の事さ。

「今日はクリームシチューよ。貴方に初めて作ってあげた料理。さあ……」

 ヤッター! 食事ノ時間ダ!
 僕は幽香が鉄格子に入れてくれたそれを奪い取った。幽香の驚いた表情が瞳に映った。イタダキマス! 僕はそう叫んでスプーンですくった。とっても美味しそうなクリームシチュー! 幽香が作ってくれたんだから不味いわけないよね! あつあつのそれをフーフー冷ますのすら我慢出来ず、僕は口に放り込んだ。うーん、オイシー! ナンテオイシイくりーむしちゅーナンダロウ! 毒が入っていようが関係ないね。僕は幽香のクリームシチューを食べたんだ! やった! 目標を達したんだ! ザマアミロ。美味いぞ畜生! もう苦しむ必要なんて無い! たらふく食べてやるんだ! 我慢出来ず僕は二口、三口とクリームシチューをかきこんでいき。

 吐いた。

 でもそれはむせただけだった。急に身体の中に食べ物が入ったから胃が驚いてしまっただけだった。一度吐いてしまえば苦しみも何もなくなってしまう。
 僕はわけが分からず呆然としていた。気付けば、幽香が鉄格子の中に入ってきていた。僕が覚えている限り、檻の中に入ってくるのは初めてのことだった。
 幽香さん。もしかして、毒は入ってなかったんでしょうか? 僕の想いは報われたんでしょうか? 僕が耐える姿に心打たれて好きになってくれたんでしょうか? 愛してくれたんでしょうか? 恋してくれたんでしょうか? これから幽香さんが僕の手をとって優しく介抱してくれるんでしょうか? 身体も元通りになり、仲睦まじく、二人で幸せに、とても幸せに暮らす日々が始まるのでしょうか?

「いいえ――たった今、アナタに興味が無くなった所よ」

 ぐしゃりと、幽香さんは僕の頭を踏みつぶした。





 これから先は、僕の目で見た話じゃない。その時には僕の目玉は幽香さんの靴の裏にへばりついて使い物にならなくなってたし、存在すらしていなかった。
 でも、僕自身のことなので、もう少しだけ語ろうと思う。
 幽香さんは、その日持ってきていたひまわりの種を僕の身体に埋め込むと、牢屋から運び出して日当たりの良い場所に埋めてくれた。
 それから短くはない時間が過ぎたけど、幽香さんは僕の所に水をあげ続けてくれた。牢屋にいる時みたいに少しだけじゃなくて、充分に。僕がすくすくと育つように。
 そうして夏になると、僕の身体からとっても綺麗なひまわりが咲いたんだ。そしてその僕のひまわりを、幽香さんは枯れるまでとっても大事に育ててくれたのさ。
 ああ、しあわせだなぁ。



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