夢見がちな少女
パチュリー・ノーレッジは恋をしていた。
あるいはそれは本当の意味で恋と呼ぶべきものではないのかもしれない。親愛と呼ぶべきものかもしれないし、憧憬と言い換えるべきことかもしれない。それとも本来ならば名前を与えられるまでもない一時の心の揺らぎなのかもしれない。
でも他に適当な言葉に思い至らなかったので、彼女はそう表現した。知識が足りなかったのではなく、あまりに経験のない事柄だったのでふさわしい言葉が思い
つかなかったのだ。図書館に古くからある辞書を引っ張り出して隅々まで目を通し、そこに記されている意味と今の感情を照らし合わせ、多くの納得といくつか
の妥協の末その言葉が選ばれた。もっとページ数の多い辞書だったら他の言葉があてがわれていたかもしれない。それが星座の本だったらどこか遠い星の名前で
呼ばれていたかもしれない。だけど結局この図書館にあるどの本を探しても本当にふさわしい言葉なんてないような気がして、パチュリーはそれ以上考えるのを
諦めた。
調べてはみたものの、その言葉の表現は自分の中のみに限られた。口にすることも何かに書き表すこともしなかった。誰に漏らすこともな
く、たやすく想いを馳せることさえしなかった。ガラスの瓶の中に入れられたそれを、誰にも見つからないよう自分だけの秘密としてこっそりと隠しておいて、
時折思い出したかのように眺めた。色鮮やかな赤色に見えるときもあれば透き通るような青色に見えるときもあった。目がくらむほどに光り輝いているときもあ
れば、じっと目をこらさなければその存在すら分からないほどうっすらと照らされているときもあった。
確かな形なんて無い。時間の経過と共に姿形は変わり、大きくなったり小さくなったりもした。それを絵に描いて描けと言われれば、多大な時間をかけた末にみっともない結果になったことだろう。
それでも、どんな時にも共通していえることがあった。
誰にも触れることの出来ない場所にあるそれが、彼女にはどうしようもなく綺麗に思えたということだ。
☆☆☆
それは、いつもと同じように過ぎ去るはずだった日のこと。
いつものようにパチュリーは本を読んでいた。埃っぽい図書館の中、他に何をするでもなく没頭していた。テーブルの上に置かれたティーカップに入った紅茶は
とっくの昔に冷め切っており味や香りは損なわれていたが、そんなことに気付きもしない様子だった。もしかしたらそこに紅茶があるということすら忘れている
のかもしれない。
そんな彼女に対面する形で、一人の少女が本を読んでいた。霧雨魔理沙。彼女はパチュリーとは違い幾分集中力を切らしているようで、二冊の本の中身を同時に睨み付けながらうなり声をあげていた。読んでいるというより、字面を眺めているだけのようでもある。
「……なあ、パチュリー」
やがて本を読むフリにすら飽きたのか、魔理沙はテーブルの向こうにいる彼女に向かって話しかけた。
「……何。まさかもう飽きたなんて言わないわよね」
魔理沙の集中力が途切れてることに気づいていたのだろう。パチュリーは声をかけられるとじろりと睨みながら彼女の方を向いた。
「い、いやそんなことないぜ! ただ魔法の研究にも休憩が必要かなーと思ってさ」
「休憩って、集めた資料を読み始めてからまだ一時間も経ってないけど?」
「そんなこと言ったって一時間も堅っ苦しく本なんて読んでられないぜ。勉強ってのはもっとゆとりをもってやらないとな」
「やれやれ……これだから人間は」
パチュリーは呆れたようにため息をつきながら、本を閉じた。
「そうそう、人間なんだからもっと気遣ってくれなきゃな」
「貴方なんて人間以上に粗末に扱っても問題ないでしょ」
そう言いながらもパチュリーはカップに残っていた紅茶を飲み干して小悪魔を呼び、新しい紅茶と茶菓子を持ってこさせた。
そして始まる、いつも通りのティータイム。
二人のティータイムはいつだってこうして始まる。魔理沙が本を読むのに飽きて、パチュリーが呆れながらもそれに付き合う。もはや様式美となったそれは、二
人の間でいつも同じように繰り返されてきた。いつの間にか、パチュリーが本を読むよりそっちの時間を待ち焦がれるようになっていたとしても。
パチュリーは、こんな時間がいつまでも続いてくれればいいのに、と心のどこかで願っていた。くだらない時間だと思いながらも、それがかけがえのないものなんだろうと分かっていた。
それがいつまでも続くものじゃないと知っていながら。
霧雨魔理沙が帰った後、パチュリーは後片付けをしていた。
散らかしていった本のあとを見てやれやれとため息をつきながら、けれどそれすらもどこか楽しそうに山積みにされた本をひとつひとつ本棚に戻していく。
「お手伝いしましょうか?」
おずおずと小悪魔が申し出てきた。
「ええ、お願いしようかしら。なんせ魔理沙ったら私ですらどこにしまったのか忘れた本まで持ってくるんだもの」
その文句も、決して本音ではない。態度こそ不真面目ではあるけど魔理沙の知識欲が本物だということはパチュリーも知っていたし、だからこそ魔理沙のこんな乱雑な本の扱いも黙認しているのだから。
そんなパチュリーの言葉を聞いて少し物憂げな表情を浮かべながらも、小悪魔はその後片付けを手伝い始めた。
普段本の管理をしているのが小悪魔だというおかげもあって、すぐに本の片付けは終わろうとしていた。
「……それにしても、最近魔理沙さんよく図書館にいらっしゃいますね」
作業の手を休めることなく、小悪魔は他愛のない話題を振った。
「ええ、本当にね。今度はどんな弾幕考えてるのか知らないけど、きっとろくなものじゃないわ」
「賑やかですもんねー魔理沙さんの弾幕。その分綺麗ですけど」
「ふん。あんな単純な魔法使っておいて見た目まで粗末だったら目も当てられないわよ」
「あはは……でもパチュリー様のおかげなんじゃないですか? ここに来られるようになってからずいぶん魔理沙さんも魔法が上達されましたし」
「おかげなんて……」
あやうく口から出かけた言葉を、パチュリーはひっこめた。いつも一緒にいる小悪魔に教えるにしては、その言葉は少し恥ずかしすぎたのだ。
「こほん。……とにかく。私は魔理沙が知りたがってるから教えてあげてるだけよ。まったく魔理沙ったら私をしゃべる本か何かとでも思ってるんじゃないかしら」
「……じゃあ、魔理沙さんが教えて欲しいと思えば、ずっと一緒にいてあげるってことですか?」
「ずっとなんてごめんだけどね。……でもまあ、あいつが理解出来ることだったら教えてあげるわよ。後継者を育てるのも魔法使いの役目だもの」
それを聞いて少しの間小悪魔は黙っていた。まるでそれは、口に唱えてはいけない魔法の呪文を言おうとするかのように。
「小悪魔――?」
異変を察したのか、それとも予感めいた物を感じたのか。そう話しかけたパチュリーは。
「魔理沙さんは、人間なのに?」
小悪魔のその言葉を聞いて、ずっと作業をしていた手を止めてしまった。
年老いた図書館は時が止まったかのような静寂に包まれて、時計が秒針を刻む音すら響かなかった。だけど、耳を澄ませばきっと聞こえただろう。少女の胸から鳴る鼓動の音が。
やがて、小悪魔はぺこりと頭を下げて。
「……ごめんなさい、何でもありません。もう少しですから早く仕事終わらせちゃいましょうね」
明るい笑顔を浮かべながら、再び小悪魔は何事も無かったかのように片付けに戻った。
何か言葉にする機会を失ったパチュリーも、諦めて片付けに戻った。けれどその作業も先ほどまでのように没頭することは出来ず、ずっと目を背け続けていた問題に気をとられ続けた。
当たり前のことだけど、彼女は気付いていなかったわけではない。気付かないふりをしていただけ。同じ境遇にある身近な二人がとても理想的に見えたから、自分に重ね合わせないよう目をつむっていただけなのだ。
年をとらない魔法使いと、いつか死ぬ人間。
手遅れになるまで目を閉じていられればよかったのにとパチュリーは密かに思った。
☆☆☆
翌日。
いつも通り、その人間は魔法使いの住む図書館に足を運んでいた。
魔理沙はいつもと変わらない様子で本を読み、時折笑い、時折あくびを浮かべている。
けれどそれに対面する形で座るパチュリーは、いつもと様子が違った。本を開いてはいるもののその中身に目を向けることなく、じっと魔理沙のことを見つめていた。
「……なあ、どうしたんだよ。そんなに押し黙っちゃってさ」
違和感を察した魔理沙は、我慢しきれずにそう話しかけた。
パチュリーは一度口を開いて、けれど閉じて。そして思い切ったかのように再び口を開いた。
「……ねえ。貴方、魔法使いになる気はないの?」
それは、パチュリーが長い間抱いていた、疑問と期待だった。
「なっ……どうしたんだよ急に」
そんなことを聞いてくるなんて思いもしなかったのか、驚いたように声を上げた。
一方のパチュリーはそんな魔理沙のことなんて気にもせずに――あるいは気にする余裕もないかのように、言葉を続けた。
「だっ
てその方が効率的じゃない? 私たち魔法を扱う者にとって何よりも必要なのは時間よ。魔法使いになれば食事も摂る必要ないし眠る必要もない。ずっと好きな
だけ、何も気兼ねする必要もなく研究をしていられる。……貴方にはあんまり素質はないけど、もし貴方が望むなら魔法使いになれるように協力してあげても良
いわよ」
パチュリーが魔理沙にそう提案したのは初めてだった。そんなこと聞く必要なんて無かったから、今まで口にすることすら避けてきた問いかけ。
だけど、その必要が出来てしまったのなら、彼女はその質問を躊躇わなかった。
魔理沙は少しだけ悩むような素振りを見せた後、冗談めいた笑みを浮かべて。
「んー、悪いな。私は人間でいいや」
そう、答えてしまった。
「魔法使いになるのは面倒くさそうだしなー。それに眠ったり食べなくても良いだなんてつまらないだろ? だから私は人間のままでいるつもりなんだ。あ、でも魔法は極めるつもりだぜ。他の連中に負けてられないからな」
いつもと変わらないようにそう語る魔理沙の表情に、迷いはなかった。きっと今までにいくらかの逡巡を乗り越えた上での結論なんだろう。笑ってはいるもののその言葉に嘘はなく、易々と考えを改めることも無いのであろう彼女の答え。
「……そう」
パチュリーは、質問する前から魔理沙ならそう答えるのだろうということは分かっていた。魔法使いになりたくないのが本心なのかは知らない。ただ、人間であることに固執しているというのは何となく気付いていたことだった。
だから、聞きたくなんてなかった。
だから、知りたくなんてなかった。
聞いてしまえば、言わなければならない言葉が生まれてしまうのだから。
ぱたん。とパチュリーは開いていた本を閉じた。埃を吸ってしまい咳き込んでしまったが、そんなことは気にも留めず、少女はゆっくりと、魔法のような言葉を唱えた。
「だったら、もうここには来ないで」
一瞬、図書館の中が静まりかえった。
いつもの静けさとは違う、しんとした、何かが壊れてしまったかのような沈黙。世界が音を忘れてしまったと言われても、きっと信じただろう。
「……え?」
「分からない? 出てけってことよ」
パチュリーはあくまで静かに、しかしはっきりとそう宣告した。
これまでにもパチュリーは図書館に来るなと言ったことぐらいはある。だけど、こんなにもはっきりと魔理沙自身を拒絶したのは初めてのことだった。
「……えっと、何かまずいこと言った?」
魔理沙は平静を装ってそう尋ねる。魔理沙としてはこんなこと言われるなんて思いもしなかったのだろう。
だけどパチュリーは答えを改める様子もなく、真っ直ぐに魔理沙を見据えたまま答える。
「私は向上心の無い人間が嫌いなの。貴方がいずれ魔法使いになるものだと思って今まで教えてきたけど……ああ本当、時間の無駄だったわ」
「お、おい。だから私は人間のままで魔法を……」
「極められるとでも? 人間のままで? ……思い上がりも甚だしいわね。魔法というのは才能のある存在が永い時間をかけてようやく極められるものなのよ。それをたった百年も生きられない人間が身につけられるだなんて思わないで」
厳しい口調で、パチュリーは続けた。最初は戸惑うばかりだった魔理沙も、その辛辣な言葉に僅かながらも反発を覚えた。
「そんなの、やってみなくちゃ――」
「分からないとでも言うつもり? 努力すれば夢は叶うと? 別に足掻くのは構わないわ。そんなの貴方が勝手にやってればいい。だけど――それと私が何の関係があるの?」
「お前――!」
気がつけば魔理沙は椅子から立ち上がり机に身を乗り出していた。
苛立ちすら混ざった魔理沙の瞳を、パチュリーは真っ直ぐに見据えたまま。
「もう、貴方に用はないの」
冷たくそう言い放った。
「……そっちになくったって、私にはある」
「ここの本に? それとも私に?」
「どっちもだ。悔しいけど確かに私は未熟だから……パチュリーに教えて貰いたいことが沢山あるんだ」
すると、パチュリーはため息をついた。呆れと苛立ち、それに焦りが混ざったようなため息だった。
「あれだけ言ったのにまだ分からないのかしら。貴方にはもう教える事なんてないの。才能のない人間ほど無駄な努力をしたがるのよ。無理だって分かりきってるのに。現実から目を逸らして。周りに迷惑をかけてることも気付かないまま……」
「私だって人に迷惑をかけてることぐらい分かってる! でも、それでも私にはやりたいことがあるんだ!」
魔理沙がここまで声を荒げるのにも理由はあった。それは、彼女にとって崇高で、儚くて、それでもやり遂げたい目標だったから。容易く諦める事なんか出来ない夢だったから、簡単に否定されたくなんて無かった。
パチュリーはそんな魔理沙の気持ちも、ちゃんと分かっていた。魔理沙がどれだけ努力しているかも、こんなこと言えば怒ってしまうということも。彼女自身よりも分かっていたはずだった。
「たとえ無理だったとしても、全力で向き合えばそこから何かに繋がるかもしれないじゃないか。だから私は頑張って――」
だけど。だからこそ。
「でも貴方は魔法使いにはならないんでしょう!?」
初めて、パチュリーは声を張り上げた。
殺気立っていた魔理沙も思わず息をのんでパチュリーのことを見つめ返した。けれど彼女は俯いてしまい、その表情は分からない。ひょっとしたらその顔を上げれば、泣いていたのかもしれない。
「……お願いだから、もう帰ってよ」
命令ではなく、懇願するかのように声を震わせて、パチュリーはそうささやいた。
「……わかった」
魔理沙もそれ以上何も言えなくなってしまい、自分の荷物だけ持って図書館から去ろうとした。
だけど帰り際、一人にしか聞き取れないぐらい小さな声で。
「明日、また来るから」
そう言い残して、図書館の扉を閉じた。
「……来なくて、いい」
誰もいなくなった部屋の中、一人きりで少女はそう呟いた。
☆☆☆
次の日、魔理沙は紅魔館にやってきた。
いつもは空を飛んで塀を越えて来るのだが、今日は門から入って図書館に行くつもりだった。
それは彼女なりの誠意のつもりだった。まだパチュリーに拒絶された本当の理由に、魔理沙は気付いていない。だけど、また話し合えば。何度でも足を運べば、また元通りの関係に戻れると信じていた。
門番に、道をふさがれるまでは。
「……ここは通せません」
いつもは何も言わずに通してくれる紅美鈴だが、今日は違った。初めてここの門を通ろうとしたときだってこんな真剣な表情はしていなかっただろう。
「パチュリーが言ったのか?」
こくり、と美鈴は頷いた。
「何があったのかは知りません。ですが、パチュリー様がそれを望まれない限り、ここを通すことは出来ません」
美鈴は、確固たる意志のもとでそう断言した。
「……そうか」
その真剣さを魔理沙も感じ取って、そのまま黙っていた。
しばらくの間、にらみ合うように対峙していた。魔理沙が強引にここを通ろうとすれば戦いになることは避けられなかった。
魔理沙は何かを考えていたが……やがて、答えを決めたように頷いて。
「わかった。ここで待つ」
美鈴はそんな答えを予想していなかったようで、ぴくりと眉をひそめると怪訝な顔つきで魔理沙の表情をのぞき込んだ。
「……ここで、ですか?」
「ああ。パチュリーはここを通すなって言ったんだろ? だったらここで待つ分には何の問題もないはずだ」
美鈴は少し迷っているようだった。何を言われてないことだが、自分はどうするべきなのかを。自分ではなく、何がパチュリーのためになる選択だろうかと。
が、考えるのを諦めたのか、やがて呆れたようにため息を吐いて。
「いいですよ。……でも、パチュリー様が望むまでは通しませんからね」
「それでいいよ。諦めは悪い方なんだ」
そう笑いながら、魔理沙は立ったまま太陽の真下でパチュリーを待ち続けた。
「……何してるの、あれは」
パチュリーは紅魔館の窓からそれを見つけると、同じように彼女のことを見つめていた咲夜に問いただした。
「待っているそうですよ。門の前で」
「……馬鹿みたい」
魔理沙がそんな行動に出るとは思いもしなかった。短絡的な彼女のことだから、諦めて帰るか無理矢理押し入ってくるどちらかだと思ったのだ。
もちろん、無理矢理押し入ってきたのなら咲夜かレミリアが彼女を追い返してしまうことになっていたのだが。
そして想定していなかったからといってそれを許すつもりもパチュリーにはなかった。
「目障りだから追い払って――」
「別にいいじゃない、パチェ」
するとどこからか面白い話を聞きつけてきたのか、この紅魔館の主がやってきた。
「よくないわよ。あんなのにかまってる暇なんてないんだから」
「かまわなければいいだけでしょ。いいんじゃない? 見世物としては面白そうだし」
「見世物って貴方……」
「あら、魔理沙を庇うつもり?」
そう尋ねられてしまって、何も答えられなくなってしまった。くすくすといたずらっぽい笑みを浮かべながらレミリアは魔理沙の方へ目を向けた。
「それにしても情に訴えるなんて人間も姑息な真似をするものね」
「……本当にね。何がしたいのかしら、あいつ」
「うん。でも、だからこそ教えてあげればいいじゃない」
「何を?」
「あら、貴方が言ってたんじゃない」
レミリアは、くすりと妖艶な笑顔を浮かべて。
「努力しても叶わないことがあるんだってことよ」
日が沈んでも、魔理沙は門の前で待ち続けていた。
☆☆☆
結局魔理沙は帰る気配すら見せることなく、再び太陽が昇っても未だに待ち続けていた。
照りつける日差しは強くは無いものの、一日中照らされ続けるとなれば別の話だ。太陽の光はずっと立ち尽くしている魔理沙にとっては体力を確実に奪うもので
しかない。魔法である程度の対策はしてあるのかもしれないが、その魔法だって人間である魔理沙にとっては有限なものだ。
けれどその間も、魔理沙は水さえも飲まずにずっと彼女のことを待ち続けていた。
昨日と同じように、ただ時計の針が回っていくだけの時間の浪費。けれど昼時になって、少しだけ変化があった。
咲夜が美鈴の交代に来たのだ。
「代わるわ。食事でもとってきなさい」
「えっと……すみません、ありがとうございます」
美鈴は少しだけ魔理沙のことを気にしながらも、紅魔館の中へ入っていった。
一方、美鈴と代わって見張ることになった咲夜は、魔理沙に明らかな敵意を持って眼差しを向けていた。
しばらく睨みながら黙っていたが、やがて咲夜の方から口を開いた。
「……ねぇ貴方、いつまでこんなこと続けるつもりなの?」
「さあね。通してくれれば今日にでもやめるけど……通してくれなかったら、ずっと続ける」
魔理沙は笑ったが、いつものような元気はない。昨日と今日で疲れが出始めているようだった。
「こっちはあんたがここにいるせいで迷惑してるんだから。妖精メイドは落ち着かないしパチュリー様は苛立ってるし……まあ、お嬢様だけなんだか楽しそうだけど」
「レミリアはこういう変な出来事好きそうだもんな」
「笑い事じゃないわよ。……どうしてこんなことするの?」
「どうしてと言われてもな。もうこんなことでも始めちゃったんだ。今更引くわけにもいかないだろ? もっとも引くつもりもないけどな」
じっと、何かを考えるかのように咲夜は押し黙った。
咲夜は魔理沙に向かって何かを言うつもりはなかった。だけど、魔理沙のあまりに迷いのない態度に苛立ったのか戸惑ったのか、咲夜は美鈴が言わなかったことを口にした。
「……パチュリー様を苦しめているのは、貴方なのよ」
「……わかってる」
わかってる。魔理沙はそう言った。
けれど帰るつもりなんてまるでないとでも言うかのように、そこから動こうとすらしなかった。
その反応を咲夜がどう思ったのかは分からない。ただ、眉一つ動かさずに言葉だけを続けた。
「……私たち人間が一緒にいることを拒絶されたら、それを受け入れるしかないのよ」
「そうかもしれない。でも、嫌だって言う権利ぐらいあるだろ?」
「あるわけないじゃない」
きっぱりと、咲夜はそう言い切った。
咲夜はレミリアのメイドなのだから、そう答えるのは当たり前のことなんだろう。
だけどそれは吸血鬼に忠誠を誓った従者としてではなく、一人の少女として言ってるかのようでもあった。
そして咲夜は最後に一つだけ、言葉を紡いだ。
「……最後に悲しませることになるのは、私たちなんだから」
誰をとは、最後まで彼女は言わなかった。
二日目の夜。突然雨が降り始めた。
もちろん雨具なんか持って来てなかった魔理沙はそのまま雨に打たれた。けれど雨宿りすることもなく、雨の冷たさに身を震わせながら、唯々彼女のことを待ち続けた。
湖畔に建つ紅魔館の夜は冷たく、人間にとってはあまりに過酷だった。ましてや雨に濡れているとなれば尚更。ひょっとしたら諦めるようにとパチュリーが降らせたのかもしれなかったが、魔理沙にはそんなこと分からなかったし、たとえ雪が降った所で帰るつもりもなかった。
そんな姿を、美鈴は傘を差しながら見張っていた。美鈴は魔理沙の事を気遣いながらも決して声をかけたりはしなかった。彼女の役目は、あくまで魔理沙を館の中に入れないこと。それが自分の役割だからと、どちらの肩を持つこともしなかった。
でも、雨に濡れながらもその場に立ち尽くす魔理沙の姿は、美鈴にとって見ていられない光景だった。
「……辛くないんですか?」
無意識のうちに美鈴はそう声をかけていた。声をかけられて魔理沙は笑ったが、その笑顔はあまりにもぎこちなかった。
「そうだな。ちょっと足は疲れたかな」
「そんな話じゃないです。……待ち続けることが、ですよ」
そう尋ねられて、魔理沙は僅かな間きょとんとした表情を浮かべた。だけどまたすぐに元の顔に戻って。
「辛くないといえば嘘になるよな。こうしてることでまたパチュリーを傷つけてるんだろうし。……ひょっとしたら私のことなんか気にもしてないかもしれないけどさ」
「だったら、辛いんだったら、どうして続けてるんですか? こんなにもはっきりと拒絶されてるのに。……こうして待ち続けてもパチュリー様には会えないって、魔理沙さんが一番分かってるんじゃないですか?」
ひょっとしたら、美鈴は諦めさせようとしているのかもしれない。パチュリーの為だけではなく、魔理沙の為にも。報われないのに想い続ける姿をこれ以上見るのが辛くって。
だけど、魔理沙は笑った。さっきよりも心の底から浮かべた笑顔のように見えた。
「そうかもしれない。だけどさ、信じてるんだ」
「……パチュリー様のことをですか?」
「いいや。こうしなかったらきっと後悔するってことを」
美鈴はじっと、魔理沙の瞳を見つめた。屈託のない瞳。どこまでも真っ直ぐな瞳。
やがて、はあ、と諦めたような呆れたようなため息を美鈴はついて。
「分かりました。もう私は何も言いません。好きなだけここでパチュリー様のことを待ってください」
「ありがとな。……それと悪いな、迷惑かけて」
「いいえ気にしませんよ。それが私の役割なんですから」
そう言って、つられたように美鈴も笑った。
「何のんきに笑い合ってるのよ貴方達は」
「わ、さ、咲夜さん!」
いつからその様子を見ていたのか、二人の隣に仏頂面の咲夜が現れた。
「全く様子を見に来たら……仲良くするのは構わないけど、そう簡単に通したら駄目よ美鈴」
「そ、そんなことしませんよ。ところでもう交代の時間ですか?」
「言ったでしょ? 様子を見に来ただけだって。それと……」
咲夜は、無表情のまま魔理沙に傘を差し出した。
「これ、使いなさい」
差し出された傘の意味が分からず、魔理沙は訝しげに見つめ返した。
「……何のつもりだ?」
「あら。だって館に入れるなとは言われたけど傘を貸すなとは言われてないもの。雨に濡れてる鼠を見かけたら傘ぐらい渡してあげたくなるでしょ?」
まさか咲夜がそんなことを言われるとは思いもしなかったのか、魔理沙はきょとんとした眼差しを咲夜に向けて。
「……咲夜って、良い奴だったんだな」
「貸すのやめようかしら」
魔理沙は笑った。だけど、笑った瞬間に、足下がふわりと揺れた。
「冗談だって。ありが――」
ありがとうな。そう言い切る前に。差し出された傘を受け取る前に。
魔理沙は糸の切れた人形のように、泥だらけの地面に崩れ落ちた。
☆☆☆
「今夜は魔理沙来てないのね」
食事をしている最中、レミリアはふと思い出したかのように咲夜にそう尋ねた。
真夜中も過ぎた頃。さっきまでの雨が嘘のように外には霧一つ出ていない。そして最早見慣れた光景となっていた門の前に立ち尽くす人影は、今夜はどこにも見当たらなかった。
食堂には三人しかいなかった。食事をしているレミリアと、傍らで給仕をしている咲夜。それと、目の前に出された食事に手を付ける様子もなく黙々と本を読んでいるパチュリー・ノーレッジ。
「諦めたんじゃないの? 案外あっけなかったわね」
パチュリーは特に気にした様子も見せずに口だけ動かした。本を読むだけなら自分の部屋でも出来そうなものだが、魔理沙が門の前で待つようになってからパチュリーは決して一人になろうとはしなかった。
その言葉を聞いた咲夜は、少しだけばつの悪そうな顔を浮かべて。
「いえ。……風邪を引いて倒れたようです」
「風邪?」
レミリアは興味深げに聞き返した。一方のパチュリーは、話し声なんて聞こえなくなるぐらい本に顔を近づけて文字を追っていた。
「はい。元々何日も飲まず食わずでいて限界だったのでしょう。……門の前に放置しておくのも体裁が悪かったので一応彼女の家まで運んでおいたのですが、よろしかったでしょうか?」
「まあ館の前で野垂れ死なれても困るものね。これであいつも懲りたでしょ。想いだけじゃなんにもならないんだって。――ね、パチェ」
くるりと、聞こえないふりをしている少女に向かって問いかけた。
「……そうね」
「ぜーんぶ、貴方の望んだ通りになったわよ。か弱い人間は冷酷な魔女に追い払われて、何もかも元通り。いずれ彼女は死んで、貴方はいつまでも生き続けて、めでたしめでたし。もっとも、あいつは今頃風邪をこじらせて一人寂しく死んでるかもしれないけどね」
「……何が言いたいわけ?」
レミリアの戯れ言に我慢出来なくなったパチュリーは尋ねかけた。けれどレミリアは、不敵な笑みを浮かべながら。
「別に。ただ貴方、ずっと逆さまに本を読んでるわよ」
そう言われてはっとパチュリーは本の表紙を確認した。だけどもちろん本が逆さまなんてことはなく、彼女から見てもそう思えるはずもなかった。
「何よ、そんなわけないじゃない」
「当たり前じゃない。逆さまにして本が読めるわけないんだから。ところで――そんな事にも気付かなかったの?」
かああ、とパチュリーの頬はみるみるうちに真っ赤になっていく。その様子を吸血鬼は、にやにやと見つめていた。
バン、と部屋中に響き渡るぐらい大きな音を立てて本を閉じた。そのままパチュリーは本を持って、結局一口も食べなかった食事に一瞥もせずに部屋を出て行った。
「おやすみパチェ。良い夜を」
無言のまま部屋を出て行く親友の後ろ姿に、そんな言葉を投げかけた。
自分の部屋に戻ったパチュリーは、読んでいたはずの本を放ってベッドの上に身を投げた。
一人きりだった。ここにはレミリアも小悪魔もいない。話し相手もいなければ本の続きを読むことも出来ない。まるで世界に一人きりになったような気分だった。
一人になんてなりたくなかった。誰かと一緒にいれば気が紛れるから。誰かと一緒にいれば考えなくて済むから。
彼女のことを。
霧雨魔理沙のことを。
今、パチュリー・ノーレッジの頭の中はどうしても彼女のことで一杯だった。
ああその通りだ。そうパチュリーは自戒した。今の私は、ちっとも私らしくなんてない。魔法の研究も、本を読むのも進まない。あの日以来。私が彼女のことを傷つけてしまったあの時からずっと。
そう望んだはずだったのに。そうありたいと願ったのに。ちっとも心は思い通りになってくれない。彼女の存在を自分の中で無くしたいと思って拒絶したのに、いなくなってからますます彼女が私の中で大きくなっていく。今では、その存在に押しつぶされてしまいそうなほどに。
レミィは全部見抜いているのだろう。さっきの会話を思い返して、そう思った。私の迷いも、躊躇いも、罪悪感も、全部見抜かれている。私の想いも、きっと知っている。
魔理沙に、会いたい。
今すぐにでも会いに行きたい。姿が見たい。声が聞きたい。触りたい。会って、話して、謝って、笑いたい。彼女の笑顔を見て笑いたい。きっとそれが幸せだったから。私にとって掛け替えのないものだったから。
だけど、もう遅い。何もかも。私は魔理沙を傷つけてしまったのだから。きっと魔理沙だって私のことが嫌いになったはずだ。私のわがままのせいで彼女を殺してしまうところだったのだから。
たぶん、二度と彼女は門の前に現れてはくれないだろう。わがままな女だと軽蔑しただろう。冷たい魔女だと罵っていることだろう。当たり前だ。それは私そのものなんだから。
こうしてもう、二度と会えるはずなんかなくて、笑い合えるはずもなくて、ずっと苦しんで生きていくのだろう。
こんなにも。
こんなにも魔理沙のことが好きなのに。
「……魔理沙」
ぽつりと、パチュリーの口から言葉が零れていた。その人の名前を呼んでいた。
でもきっと、これが最後だった。
長い間独りを生きてきた彼女だから、心を閉じ込める術はよく知っていた。自分の弱さを知ってしまった彼女は、その綺麗なものの入った瓶のふたを固く締めてしまうのだろう。
そしてそれは二度と開かれることはない。
もしも彼女が再び門の前に現れたとしても、今までほどパチュリーは傷つかないだろう。そして二度と彼女の名前を口にすることもない。やがて日常が流れていく中で、瓶があったことさえ忘れて、笑顔を浮かべることすら無くなってしまうのだろう。永遠に。
だから、それが最後。
誰の元へ届くこともない、一人きりの部屋で紡がれた最後の一滴。
「呼んだか?」
それを、掬い上げた人がいた。
パチュリーは声のした方を振り向いた。気のせいだと思って。勘違いだと思って。そうであって欲しいと思って。
でもそれは勘違いなんかじゃなかった。そこに、願い続けていた姿があった。
窓の向こう。
紅い月より少し手前。
霧雨魔理沙はそこにいた。
夢なんじゃないかと、思った。けれど夢じゃない。そのことは夢を捨てた彼女が誰よりも知っていた。
彼女は箒に乗って空に浮かんでいた。月の光を遮るように。決して自ら窓を開けることはせず佇んでいた。上気した頬を見れば、未だ体調が優れないことは見て取れる。きっと今空を浮かんでいるだけで精一杯のはずだ。……なのに。
魔理沙は来てくれた。
閉じこもってる私を迎えに来てくれた。
こんな時、なんて言えばいいのか知っていた。沢山の言葉を知っていた。本で紡がれた色々な言葉があった。こんな時に言うべき言葉を幾つも覚えていた。
けれど、結局口から出てきたのは。
「――何しに、来たのよ」
嘘だらけの、彼女の言葉。
「もう来ないでって、言ったでしょう」
真っ直ぐに顔を見ることなんか出来なくて、俯きながらそう言った。ずっと暗がりにいた彼女には、その光は眩しすぎたから。
それがパチュリーにとって精一杯の抵抗。魔理沙はだけど、もちろん帰ろうとなんてしなかった。
「お前を泣きやませに来た」
硝子越しに、彼女は言った。
「パチュリーが本当に会いたくないって言うなら、私はもう二度と来ない。だけど、だったらどうしてそんな辛そうな顔をしてるんだ? どうして私の名前なんか呼んだんだ? ……その原因が私にあるんだったら、私はきっと自分を許せないから」
だから、ここに来たんだ。
魔理沙はあくまで、自分本位な答えを告げた。
「……美鈴は、どうしたの」
それにパチュリーは答えることは出来無くって。代わりに彼女がここへ来ないよう守ってたはずの名前を口にした。
「通してくれたんだ。パチュリーのこと、心配してたよ」
「……咲夜は?」
「……さあて。人間だから夜は寝てるって言ってたかな」
ああ、誰も彼も。
私のして欲しい事と逆のことばっかり。
沈黙が二人の間を遮った。何かを言えば何かが壊れてしまいそうで、二人とも口を開くのを躊躇っていた。
「……私は、魔法使いにはなれないよ」
その静寂を破ったのは、魔理沙だった。
「私
が本物の魔法使いになるには、きっと沢山のものを捨てなきゃいけないんだと思う。取り返しのつかないぐらい沢山のものを。魔法使いになるなんて並大抵のこ
とじゃないし、そんな才能もあるわけじゃない。だけど、私はもう掛け替えのないものを沢山もらっちゃったから、今更何もかもを捨てて魔法使いなんかになれ
ないんだ」
それは、かつての答え。
子供らしくって、恥ずかしくって、あまりにも大切だから答えることが出来なかった本当の理由。
「私はもう何も失いたくない。だから、パチュリー。お前にだっていなくなってほしくないんだ」
それが魔理沙の答えだった。
子供じみてて、人間くさい、未熟な答え。
それでも、結局のところ何も変わってなんかいなかった。
魔理沙がここに来たって、どれだけ一緒にいたいと願ったって、パチュリーが拒絶してしまえばそれで終わり。窓は開かれることなく、お互いに関わり合うことなく、結果は何も変わらない。
パチュリーはそう言うつもりだった。もうお前なんか必要ない。それは当たり前のことだ。ずっと一人で生きてきたのだから、今更隣に誰かがいてくれる必要なんかない。魔法使いである彼女は、純粋な少女にそう言える強さも冷たさも持っていたはずだった。
「……そんなの」
だけど。
「私だって、貴方と一緒にいたいに決まってるじゃない……!」
彼女は、もう強い魔法使いなんかじゃなくなっていた。
パチュリーは涙を流していた。肩を震わせて泣いていた。いったい最後に泣いたのはいつだろう。そんな誇り高い彼女が、恥も外聞もなく、無垢な童女のように泣いていた。
「だけど、駄目なの」
私は臆病だから。そう言って彼女は続けた。
「このまま貴方と一緒にいたら、私は笑えなくなっちゃうから」
それが答え。
瓶の奥に閉じ込めた、彼女の想い。
「貴
方と出会って、私は笑えるようになったの。本の外の世界が楽しいものだなんて思いもしなかったのに、貴方と一緒にいればどんな世界だって輝いて見えた。二
人でいる時間がこんなにも楽しいものだったなんて、初めて知ったの。二人の時間が長くなればなるほど、貴方のことをどんどん好きになって、もっともっと世
界が輝いて見えるようになって――でも」
その綺麗なものを知った時に、同時に気付いてしまった。
「貴方は、いつかいなくなっちゃうんでしょう?」
永遠なんて、どこにもないということに。
「貴方がいるから笑えるのに、貴方はどこにもいなくなっちゃう。私を残して。私を一人きりにして。今よりもっと貴方のことが大切になったら……私はきっと、貴方のいない世界に耐えられないから」
だから、これでおしまい。
彼女はそう、終わりの言葉を告げた。俯いたまま。涙でいっぱいになった自分を恥じるように。
魔理沙はずっと黙っていた。彼女の想いを一心に受け止めようと、耳を傾けていた。
「なあんだ、そんなことか」
そして――まるで当たり前のことかのように、彼女の憂いを笑い飛ばした。
「それでも、私が笑わせてやるよ」
パチュリーは、初めて顔を上げた。そして、彼女が浮かべる笑顔を見た。
忘れかけていた、忘れようとしていた、見ているこっちまで笑いそうになるとびっきりの笑顔を。
「どんなことをしたって笑わせてやる。パチュリーが泣いてたら、いつだって駆けつける。例え私がいなくなったって――あんな馬鹿なことがあったなって笑えるぐらい楽しいものを、これから沢山見せてやるから」
そう言って、魔理沙は硝子越しに手を伸ばした。
「明日が怖いから今日笑えないなんて、そんなの馬鹿みたいじゃないか。今日笑えるから明日だって笑えるんだ。笑ってるから気付けるんだ。世界はきっと、そんな心配なんかする必要ないぐらい素晴らしいものに満ちあふれてるんだって」
まだ何も掴めていない真っ白な手のひらを差し出して、唱えた。
「だから、一緒に行こう。パチュリー」
ラクト・ガールを連れ出す、魔法の言葉を。
少女は、かつて魔法を夢見ていた頃を思い出した。叶えたい魔法があった。信じたい魔法があった。ずっと想いを馳せていたそれを、決して手の届かないものと諦めていた。
そして。
「――うんっ!」
少女は窓を開いた。
ずっと閉ざしていた窓を開いた。部屋の中を風が吹いた。その風が全てを吹き飛ばした。部屋にあった本も、積もり積もった埃も、被っていた帽子も、何もかもどこかへ吹き飛ばされていった。
だけど、もう躊躇わなかった。
ずっと夢見てきた魔法がそこにあったのだから。
騒ぎに気付いてレミリアと小悪魔が部屋まで駆けつけてきた。だけどその時にはもう、少女は魔法使いの箒の後ろに跨がっていた。
「ごめんね、レミィ」
驚いた表情を浮かべる親友に向けて、少女は大きな声で謝った。
「私、行ってくる!」
「行くって、こんな時間にどこまで?」
少女は、とびっきりの笑顔を浮かべて。
「どこまでも!」
二人の少女を乗せた箒は彼方へと飛んでいった。館を越えて。湖を越えて。雲さえも越えて。
夜の空。二人きりで飛び立った。
☆☆☆
部屋に置いてきぼりを食らった二人は、その姿をただただ黙って見送っていた。
少女の親友と仕えてきた小悪魔。立場は違ってもずっと彼女を見守ってきた二人には、置き去りにされたことへの憤りなんか抱くはずもなかった。
「結局、行っちゃいましたね」
小悪魔はレミリアに向かってそう言った。
「そうね。まったく、二人とも不器用なんだから。最初から正直に言い合ってればもっと早くに解決できたのに。本当、いい迷惑だったわ」
そう言いながらもレミリアの表情には特に不満な様子はなく、むしろ満足そうですらあった。
一方の小悪魔は何か言いたいことがあるらしく、明らかなふくれっ面を浮かべて拗ねた様子で口を開いた。
「迷惑なのはこっちですよレミリア様。あんなこと言わせといてフォローするどころか焚きつけるんですもん。パチュリー様の辛そうな姿を見るのが心苦しかったんですから……」
あの日。
パチュリーと魔理沙が喧嘩別れするきっかけを作った言葉を小悪魔に言わせたのは、レミリアだったのだ。小悪魔はそれが二人の関係に変化が起こることを分かっていながらも半ば強引にこの館の主に言わされていたのだ。
だがレミリアは悪びれた様子もなく、ふふんと鼻で笑いながら言葉を紡いだ。
「あら心外ね。貴方だってあの二人をもどかしく思ってたんでしょう?」
「それは……」
「貴方が言うことでパチェ自身が気付くことが重要だったのよ。私が言ったところであいつは皮肉と受け取るだろうし。まあ、それに結果として良かったじゃない。二人は問題を認め合って、仲直りして、何もかも上手くいき、めでたしめでたし」
小悪魔は反論しようとして……けれどその言葉の意味について少し思いを巡らせてみる。
そして、たどり着いた結論について怖々と質問してみた。
「……ひょっとして、こうなる運命だった、ということですか」
運命を操る吸血鬼は、にぃっといたずらっぽい笑みを浮かべて。
「さあて、ね。どんな運命か決めるのなんて、人間がすることでしょう?」
☆☆☆
紅く染まった空。二人きりの逃避行。
少女は魔法使いの腰に回した腕に、ぎゅっと力を込めた。空が寒かったのか、それとも二度と離れまいとそうしたのか。答えは少女の中だけにあった。
「もっと遅く飛んで」
魔法使いの返事は、紅く煌めく満月だけが聞いていた。
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