シュガー・ミルク・パチュリー



 笑顔というのが、あんまり好きじゃない。

 なんていうか、ばかっぽいのだ。表情というのは普段の状態が一番均整がとれてるのに、わざわざそれを崩してまで表現しようとすることが。
 楽しい時は素直にそう言えばいいのに。言葉という素晴らしいツールがあるのだから、わざわざそんな短絡的な方法で伝える必要はない。決して私が自然な笑顔をつくれないから子供みたいに癇癪しているのではなく、理論的に考えて断固としてそう主張するのだ。
 ……と、この間小悪魔に力説したら誰が見ても分かるような愛想笑いをされた。ばかっぽい笑顔より腹がたつ笑い顔だった。
 知り合いにも一人いつでも笑ってる人間がいるが、どういう考えをしているのか本当に分からない。そういう所もむかつくのだ。
 いつだって楽しそうに。どんな些細なことだって可笑しそうに。

「……なんだってみんな、そんなに笑えるんだろ」

 ぽつりと、そんなことを呟いてしまったせいで、もやもやとした思いはより一層深まってしまった。
 もやもやが形になって、やがて本を読むのにも集中できなくなった時、私はある考えを固めた。
 みんなに聞いて回ろう。
 そして、二度と笑えないような身体になるまで論破してやろう。
 そうなってしまえば都合が良い。みんな笑わないのなら笑顔について気に病む必要はない。笑う必要なんてなくなり、お喋りする必要もなくなって、みんな各々の部屋で本を読み続けるだけの世界。
 思い浮かべるだけで恍惚してしまうような光景だった。

「……おっといけないいけない」

 口から零れそうになったそれを袖で拭きながら、ともあれその計画を行動に移すことにした。いつもは行動力に欠ける私だが、後ろ向きな目的のためなら実行も早い。
 まずは手始めに、いかにもばかっぽく笑う門番から聞いてみようか。


   ☆☆☆


 案の定、美鈴は仕事中でありながらシエスタの真っ最中であった。
 立ったままであろうと眠ってしまうという彼女の睡眠欲には恐れおののくけれど、とりあえず質問もしたいので手っ取り早く起こすことにした。

「……んぅ……そんなに食べられないですよぉ……」

 キィン(ナイフで刃と刃を合わせる音)

「ひっ! 寝てません寝てませんから!」

 よく訓練された門番はその音を聞いただけで飛び起ききょろきょろと周りを見回した。

「って、なんだパチュリー様じゃないですか。驚かせないでくださいよー」
「……私だから驚かせるだけで済んだんじゃない」
「はい……ごめんなさい……。それで、どうしたんですかこんな所まで。パチュリー様がここまでお越しになるなんて珍しいですね」

 こうして話している短い間にも、美鈴の表情はころころと変わっていく。そういう所はあいつに通じる所があるだろう。

「率直に聞くわ。美鈴、あなたはどうして笑うの」
「笑うの……って、えっと、どういう意味でしょう?」
「そんなばかっぽい顔を人様に向けて恥ずかしくないの」
「私の笑い顔ってそんな馬鹿っぽいですかね……」

 ずーんと落ち込む美鈴。

「んー……でも、笑顔って馬鹿っぽいくらいが丁度いいと思いますよ」

 だけどまたすぐに笑顔を浮かべて、思いついたようにそう言い出した。

「どういうこと?」
「えーっとなんていいますか……笑顔って嬉しい時に浮かべるものじゃないですか。そういう時って、小難しそうに笑うより、馬鹿っぽく笑う方がなんかその……仲良さそうじゃないですか!」

 適当な言葉が思い浮かばなかったのか、強く言い切ったその言葉はなんとも心許ないものだった。

「……まあ、周りから見てどう思われるかっていうのは大切かもね」

 客観的に見て、という意味では確かに笑顔は必要なのかもしれない。その点、楽しそうに笑い続けている彼女と一人黙々と本を読み続けている私という光景は、どう見られるのだろうか。
 すると美鈴は、ちょっと恥ずかしそうに微笑みながら言った。

「でも私は頭よくないんで、そんなこと考えて笑ったりできないんですけどね……。楽しかったり嬉しかったりする時にしか笑えないですよ」

 ……結局、そんな理由か。

「ということは、こんなこと話してるだけでもあなたは楽しいの?」
「もちろんですよ! パチュリー様とこうして話すの珍しいですし!」

 なおもにこにこしながらズバリとそう言い切った美鈴に、ちょっとばかり衝撃を受けた。
 私とただ話をしているだけで、こうも楽しいと言い切れるなんて……。

「……少なくとも、私はそんな風に笑えないわね」

 呆れと落胆を込めてそう吐き出すと、美鈴は。

「そうですか? 最近パチュリー様の笑顔よく見ますけど」

 思ってもみなかったことを言い出した。

「私が……? いつ笑ったのよ」
「ええっと、いつ笑ったのかとかは覚えてないですけど……以前よりは、笑われるようになったかなぁ、とか」

 うむむあやふやな……でも最近そんなに面白い出来事があった覚えはないし、不用意に笑ったりなんか……。
 だけど美鈴は私が笑ったということに確信を持っているらしく、なおも言葉を続けた。

「自分が笑ってる事なんてそんな気にしないですもんね。でも、笑った方が良いと思いますよ」
「……どうしてそう思うのよ」

 すると美鈴は、太陽みたいに眩しい笑顔を浮かべて。

「だって、笑ってる時のパチュリー様とっても素敵なんですもん!」


   ☆☆☆


 私は、釈然としない気持ちのまま紅魔館の中に戻っていた。
 今まで私は自分が笑ったりするような魔法使いじゃないと思ってたけど……どうやら美鈴の話だと、私は笑うようになってたらしい。それも自分でも気付かないうちに。
 よろめきながらも図書館へ戻ろうとする最中――先程の門番とは対照的に、忙しそうに仕事を勤める人物を見かけた。
 ……そういえば。あの子もあんまり笑う子じゃないし、もしかしたら私の意見に共感してくれるかも知れない。
 そう思い、時を止めながらせわしなく掃除を続ける彼女に尋ねることにした。

「ねえ、咲夜」

 一言そう呼ぶだけで、文字通りその瞬間に私の前に時を止めて現れる咲夜はさながら忠実な軍用犬のようだ。

「なんでしょうか、パチュリー様」
「あなたって、あんまり笑わないわよね」
「? はい、一応……」
「人ってどうして笑うんだと思う?」

 そんな質問を投げかけてみると、咲夜は少し考え込むような仕草を見せて。

「……それは、とんちですか?」
「あ、普通に答えてね」
「はい」

 そうしてまた熟考し始めた。
 妙な沈黙がそのまましばらく続いたが、やがて躊躇いがちに口を開いた。

「……パチュリー様は、どうしてそんなことを思ったのですか?」

 おそらく求められている答えを探るための質問なんだろう。私はあらかじめ考えていたことを口にした。

「だってばかっぽいでしょ? 言葉で表せばもっと正確に伝えることが出来るのに、安易に表情だけで伝えようとするなんて。そんなの子供だって出来るわ」
「それもそうですけど……」

 咲夜は何か言いかけたと思ったら。ふと、まるで何かを察したかのような表情を浮かべて。

「……ですけど、笑顔って素敵じゃありませんか?」

 どこかで見たような微笑みをたたえながら、いやらしくそう言った。

「な、何よそれ!」

 思いもしなかったようなこっぱずかしい台詞に、つい声を張ってしまった。

「だって当たり前の事じゃないですか。人間は誰だって好きな相手には喜んでもらいたいと思うものです。そんな相手が嬉しい時に浮かべてくれるのが笑顔なんですから、これ以上に素敵なものなんて無いじゃないですか」
「そんなの、言葉で……」

 僅かにつっかえながら反論しようとすると、咲夜は首を振って。

「確かに言葉で言ってくださるのも嬉しいです……けど、形でいただけるのってとても安心するんですよ。どんなに辛くても、苦しくても、その方の笑顔を見るだけでこっちまで笑顔になれるんです」

 咲夜はそこまで言い切ると、ほんの僅かに息を吸って。

「それに……先程から言葉で伝えればとおっしゃってますけど――本当にちゃんと言ってあげてるんですか?」
「……あなたの紅茶が美味しい時には、素直に……」
「私じゃなくて、あの人間ですよ」
「……」

 一番痛いところを……。
 それ以上何も言えなくなってしまうと、咲夜はくすりと笑った。

「駄目ですよパチュリー様、彼女は鈍感なんですから。面と向かって言うのが恥ずかしいんでしたら、せめて笑って差し上げないと」

 レミィそっくりな、からかうような笑顔で。


   ☆☆☆


 そうして……やっとのことで私は自分の図書館に戻ってきた。
 ほんの僅かな間の外出だったが、妙に疲れてしまった。まるで今まで行ったことのない場所にでも旅出ていたかのように。
 気怠い疲労感にうんざりしながら、机に顔を埋めた。このまま眠ってしまっても良いかなと思えるぐらい。
 ……それとも、と思い直した。私はこれからのことを気に病んでいるんだろうか。
 今までは、笑顔なんて気にしたことなかった。話し相手といえばレミィや咲夜の他にはほとんどいなかったし、無理して笑う必要もなかった。
 ああだけど。あいつがこの図書館に足を運ぶようになって。あいつがろくに相手もしない私に構うようになって。あいつが私に笑いかけるようになって。
 ふと思ってしまったのだ。私は、あんな風に笑ったり出来ないって。
 笑えない自分が恥ずかしくて、悔しくて。開き直ってみたり共感を得ようとしてみたけど。

「……ほんと、馬鹿みたい」

 いつからか持ち歩き始めた手鏡で、自分の顔をそっと覗き込む。いつも通りむっつりとした可愛げのない表情が映ってるのを見て、落胆の息を吐いた。
 試しに、と自分の口を笑顔に見えるように人差し指でつり上げてみる。強張った頬は表情をぎこちなく歪めることしか出来ず、到底笑顔には――

「何やってるんだ、パチュリー?」

 びっくりして鏡を落としそうになった。

「珍しいな、鏡なんか覗き込んで……」
「な、な、な、何やってるのよ魔理沙!?」

 気付かないうちに背後で見ていたらしい彼女に向かって、自分でもよく分からないままにそう叫んだ。

「何って、いつものように本を借りに来たんだぜ」
「の、ノックぐらいしなさいよ!」
「パチュリーがどっか行ってた時に来たんだよ。ノックするのはそっちだろ?」
「私の図書館!」

 恥ずかしさやら情けなさやらを誤魔化すため大声でまくしたててしまった。

「まあまあ、小悪魔に紅茶淹れてもらったからそれでも飲んで落ち着こうぜ」

 一方の魔理沙はそれを気にする様子もなく、いつのもように私の真向かいの椅子に腰掛けた。
 そのタイミングで小悪魔が紅茶を持ってきてくれた。……気の利くような利かないような、二人分を。

「……まったくもう」

 いつまでも空回りしていられないので、自分を落ち着かせるべくカップに口をつけた。ほろ苦くも甘ったるいミルクティー。
 温かくなった吐息が出ていくのを感じながら、こっそりと魔理沙の方を覗き見た。ちょっとだけ熱そうに眉をしかめながらもゆっくりと味わい、そしてみるみるうちに笑顔に変わっていった。
 そんな笑顔を見て、やっぱり私は思った。

「……どうして貴方は、そんな風に笑えるの?」

 気付けば、口に出していた。

「……ん?」
「……ううん、なんでもない」

 言ってしまった後で恥ずかしくなって。ひとりごとだったみたいに誤魔化そうとした。
 だけど、意地悪な彼女はちゃんと聞いていて。

「ああ、なあんだ。そんなの――パチュリーがいるからさ」

 思いもしなかった所で聞いた自分の名前に、ぽかんとしてしまった。

「……私が?」
「うん。他にいないだろ?」

 いつものように冗談かと思った。だけど、冗談が好きな魔理沙にしては珍しく、ちょっとだけ照れくさそうに話し始めた。

「こうやって馬鹿なこと話したり、やりあったり、それともただ二人で本を読んだりしてるだけってのも結構楽しいし」

 それに。と魔理沙は付け足して。

「パチュリーが笑ってくれるから、私まで笑顔になれるんだぜ」

 今度こそ、私は混乱してしまった。

「わ、私笑ってなんか……」
「いーや、笑ってる。隠したって分かるんだからな、ずっとパチュリーのこと見てきたんだから。たまにしか笑ってくれないけど、パチュリーの笑顔ってすっごい可愛いんだぜ」

 今、私はどんな顔をして魔理沙の話を聞いているんだろうか。きっと赤くなってるに違いない。りんごみたいに耳まで真っ赤になってるに違いない。

「人間なんて、きっと誰かといなくちゃ笑うことなんて出来やしないないんだ。私はパチュリーが笑ってくれるから笑うことが出来るから。だから、私が笑うことで、パチュリーが笑ってくれたらなって、そう思うんだ」

 でも、今目の前にいる彼女ほどじゃないはずだ。彼女ときたら格好つけてるのに真っ赤になって、恥ずかしそうに、一生懸命伝えようとしてくれている――屈託のない笑顔で。

 だから、私はとうとう我慢できなくなってしまった。

「……く、ふふっ」
「……へ?」

 とうとう私は、声にして笑い始めてしまったのだ。

「ふふっ……貴方って意外とロマンチストなのね」
「な、なんだよ。悪いか」
「ううん、ぜんっぜん。だって……」

 私だって、貴方の笑顔で笑ってしまったんだもの。

 最後の言葉を口にしたかどうかは、忘れてしまった。
 だけど、その後日が暮れるまでずっと二人で笑い合ってたことだけは、きっといつまでも忘れることはないだろう。


   ☆☆☆


 その日の夜。
 私は枕元にある読書灯を点けて一人ベッドの中で本を読んでいた。
 だけど、本の内容が頭に入ってくることなんてなく、代わりに思い返してしまうのは昼間の出来事。

「……ふふっ」

 思い出すだけで笑ってしまう。どうしてあんな些細なことであんなにも笑うことが出来たんだろう。自分は笑えないんじゃないかって、馬鹿な心配をしていた私が。
 魔理沙がここに来るようになってから、そんなに月日は経っていない。付き合いだったらレミィや咲夜の方が長いはずなのに。ああいうタイプの人間は苦手だったはずなのに。
 いつの間にか、あいつの笑顔を待ち焦がれるようになって。
 いつの間にか、あいつの笑顔に憧れるようになって。
 いつの間にか、一緒に笑い合ってみたいと願うようになっていた。
 あんな風に笑ったり出来ないと思っていたはずなのに、だから諦めようと笑顔を否定しようとしていたはずなのに。今日その夢が叶ってしまった。こんなにもあっさりと。まるで魔法のように。

「……」

 やがて読書を諦めると、本を閉じて、明かりを消した。そして窓の外を見た。
 夜だというのに外は明るい。空を覗いてみると月が出ていた。まん丸くて、大きくて、紅い月が。
 まるで永遠に続くかのように満たされた満月は、だけど日を追う事に欠けていき、最後には無くなってしまうのだろう。
 吐いた息は白く濁り、そしてすぐに消えてしまう。

 貴方のおかげで、私は笑うことが出来るようになった。
 貴方が笑ってくれているから、私はこうして笑うことが出来る。
 でもいつの日か、貴方がいなくなったら?
 貴方の笑顔がなくなったら、私はこんな風に笑えるのかな?

 月に投げかけた答えのない問いは、やがて夜の闇に包まれて、瞼が閉じると同時に見えなくなった。



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