私にとって特別な日
その日は私――佐久間まゆにとって特別な日だった。
その日、私は読者モデルの仕事で撮影に来ていた。街中に隠れたちょっとお洒落なお店紹介とか、そういうありふれた企画。誰がやっても同じ仕事だから、その誰かとしてたまたま私があてがわれただけ。
でもそれを特には気にしてなかった。元々読者モデルの仕事もお小遣い稼ぎの感覚でやってただけだし、将来芸能人としてやっていくつもりもなかった。少しだけお茶して、撮影して、あらかじめ用意してきたコメントを答える。時給にしてみればわりの良いアルバイトだろう。私は要領よくやってきて周りのスタッフからも信頼されていたから、雑誌の一面は飾らないまでもちょくちょく簡単な仕事を持ってきてくれた。
ただ、この日の仕事は少しだけ雰囲気が違っていた。
一緒に撮影をするのは同じ読者モデルじゃなくて、アイドルの娘だったのだ。
その娘のことはちょっとだけ知っていた。人気とまではいかないけど最近雑誌などでよく見かける娘だった。歳はあまり変わらないけど、ちっちゃくてとても可愛らしい娘。自分で自分のことを「カワイイ」と言っているのが印象的だったので、よく目に留めていた。
実際話してみると変わったところはあるけどとても素直な娘だった。他のスタッフとも初めて一緒に仕事をするというのに皆から気に入られていて、ああ、アイドルというのはこういう娘がなるんだろうなぁとなんとなく思った。
とはいっても、そんなの全然特別な事ではない。違う業種の人と一緒に仕事したことはこれまでにもあったし、彼女よりもっと凄い人とも会ったこともある。
ここまでは、いつもと変わらない日常の出来事。
その娘はなんだか落ち着かない様子でいた。所在なさげにしきりに辺りをきょろきょろと見回したり、携帯を取り出してはため息をつくといった具合に。
少し心配になって声をかけてみても平気そうに振る舞うだけで、どうしたのかなんてちっとも話してくれなかった。本当のことを言うのが恥ずかしいそうでもあった。
撮影が始まる直前、もしかして誰かを待っているのかなと気付いたその時。
そしてここからが、私の特別な日。
彼が息を切らせながら現場に駆けつけた。
彼が、彼女が待っていた人なんだということは一瞬で分かった。だって彼の姿を見た瞬間、彼女は本当に輝いたんだから。
「待っ――遅いですよ、プロデューサーさん! こんなにカワイイボクを待たせるなんてどういうつもりですか!」
「す、すまん……前の仕事が長引いて……走って……」
ぜいぜいと息を切らせながら謝る彼。彼女も表面上は怒ってはいるものの、端から見れば来てくれたのが嬉しくて仕方がないことなんてはっきりと分かった。
「もう、いいですから早くボクの格好が大丈夫かちゃんと見てください」
「え……いや十分すぎるぐらい決まってるぞ」
「もっとちゃんと見てください! 鏡が無いから……その、プロデューサーさんに確認してもらわないと安心出来ないんです」
もうとっくに服装や髪型なんて整えていたはずだけど、改めて彼にその格好を見てもらう彼女。まるでそうすることが彼女にとって仕事に臨むための儀式であるかのように。
そして彼も決して手を抜くことなく細部を確認すると、彼はぽんと彼女に頭に手を乗せて。
「よし、大丈夫だ。いつも通り可愛い幸子だぞ」
「……はい。ふ、ふふーん。そんなの当たり前です! ボクが仕事するのを安心して見守っててくださいね!」
そうして彼女が彼に向けた笑顔は、まるで魔法をかけられたシンデレラのように今までよりずっと輝いていた。
その一連の様子を、私はお話の出来事を見るかのようにずっと見つめていた。
こんなに素敵な出来事が、この世界にあるんだろうか。
おそらく、彼女は平気なふりをしていても知らない人ばかりの現場できっと心細かったのだろう。それが彼が来た瞬間に一瞬で吹き飛んだ。
私が可愛らしいと思った彼女の笑顔は表面上のもので、彼女はもっと輝くことが出来たのだ。
そしてその光を照らしたのが、彼だ。
彼は端から見て特別に格好いいわけではない。たくましいわけではない。賢そうなわけではない。
でも、どんな人なんだろう?
こんなにも男の人のことが気になったのは初めてだった。好きとか嫌いとかいった印象を他の人に抱いたことはあったけど、それとは遙か別の世界の感情だった。
撮影の間もぐるぐるぐるぐるとその思考が頭の中を駆け巡っていた。初めは小さな疑問だったものが、気付けば大きな想いへと変わっていた。
もしも、私のプロデューサーが彼だったら。
もしも、私の隣にいてくれるのが彼だったら。
もしも、私の頭を撫でて可愛いと言ってくれるのが彼だったら――
次の日。
私は元いた事務所をやめて、彼のいる事務所の前に立っていた。
***
それが数ヶ月前の話。
今の私は彼のプロダクションでアイドルをやっている。
別に彼と一緒に仕事が出来るのなら売れなくても良いと思ってたけど、今ではそこそこ人気のアイドルとしてやっていけてる。それも彼のプロデュースのおかげなんだろうと思うとますます好きになっていった。
アイドルとしての仕事は惰性で続けていた読者モデルの頃よりやり甲斐があるし、こっちでも仲の良い女の子は沢山出来た。ここに移ってからの私は、とても充実した日々を送っていた。
ただ一つ。
彼がちっとも振り向いてくれないことを除いては。
その日は、少し肌寒い冬の日だった。
陽が落ちて誰もいなくなった事務所の中、彼がカタカタとパソコンをいじっている音だけが響いている。
仕事から戻ってきた私は事務所に他に誰もいないことを確認すると、キイと事務所の扉を開ける。その音に気付いた彼が扉の方を向いてくれたので、とびっきりの笑顔を作ってにっこりと微笑む。
「プロデューサーさん、もしよかったら送っていただけませんか?」
私がそう声をかけると、彼は仕事の手をいったん止めて時計を見た。どうやら周りの様子にも気付かないほど仕事に集中していたようだ。
「あーっと、もうこんな時間か。もうちょっと仕事かかりそうだから他の娘と……」
「もうみんな帰っちゃいましたよ」
「だよなぁ。……じゃあ悪いけどもう少し待っててもらっていいか? きりの良いところまで仕上げるから」
「はい。まゆいくらでも待ちますから」
こうやって誘えば彼は絶対に断らない。彼の優しさにつけ込むようで少し気が引けるけど、これも少しでも長く彼との時間を育むためなのだから仕方ない。
駅までの短い距離だけど二人きりで一緒に歩ける、他の娘にも、仕事場の人にも、誰にも邪魔されることのない二人きりの時間。そんな時間を一秒でも過ごせると思うと心がときめいた。
もちろん、仕事が終わるまでのこの時間だって二人きりだ。私は仕事で疲れてるであろう彼の為にお茶を煎れる。こっそりと戸棚の隅に置いている、彼の為だけに用意してある茶葉。
「お茶煎れましたよ、プロデューサーさん」
「ん、おおありがとうな、まゆ」
彼の為にお茶を煎れると、私も自分にお茶を煎れて隣にあるデスクの椅子に座った。
特に会話らしい会話はない。彼は仕事をして、私はそんな彼を眺めてる。他の人から見ればなんてこともない時間なのだろう。だけど私にとってそれは夢のような時間だった。永遠にこのまま二人きりでいられればいいのにと思えるほどに。
だけど永遠なんてものはない。私はただのアイドルで、彼は沢山のアイドルを抱えるプロデューサーなのだから。
ふと彼が作業をしているパソコンの画面が目に映った。書類のようではあるが、所々に図も混じえてわかりやすくしてる。
その図面に描かれているのは、私のライブの為の衣装ではなくって。
「……なんのお仕事なんですかぁ? プロデューサーさん」
邪魔するつもりは無かったのだけど、つい尋ねてしまった。
「これか? これは今度のライブの為の企画書だよ。今日中にまとめて社長に送らなくちゃいけなくってさ」
「今度のライブ……ああ、幸子ちゃんのライブですね」
輿水幸子。彼と初めて出会った日に、彼と一緒にいた少女。
彼と過ごした時間は彼女の方が長い。聞いた話によると彼が最初にアイドルとして育て上げたのが彼女だということだ。
彼女自体は悪い子ではない。むしろ好きな方でもある。だけど、今彼と一緒にいるのは私なのに、彼が幸子ちゃんの為に時間を割いてるというのが嫌だった。
「ああ。今度のは幸子の記念になるライブだからさ、ヘリコプターで空から飛んでくる演出にしようと思ってるんだ。空から登場するアイドルなんてきっと史上初だぞ!」
「……ふうん」
幸子ちゃんのこと話すときそんな風に笑うんですね。
出かけた言葉は、こっそりと飲み込んでおく。彼に好きになってもらわなきゃいけないのだから、彼に嫌われる言葉は言ってはいけないのだ。
私のそんな心境を知ってか知らずか、彼はまた仕事に戻りカタカタとパソコンに打ち込み始めた。仕事だというのに。嬉しそうに。ああでもないこうでもないと試行錯誤しながら。私が煎れたお茶が冷めてくことなんかに気付かずに。
……知らず知らずのうちに自分のコップを握る手に力が入っていた。いけない。いけない。こういうのはもっと隠さないといけないのに。
だけど一度出てきた黒い気持ちはなかなか消えてくれなくて。つい――ああきっと後で公開することになるのに――聞いてしまった。
「プロデューサーさんって、本当に幸子ちゃんのこと好きですよね」
すると、仕事をしていたプロデューサーさんの手が止まった。
「……そう言われると語弊がある気がするけどな」
ぽりぽりと頬をかきながら満更でもなさそうに――ええ満更でもなさそうにそう言った。
「そうですよぉ。だって幸子ちゃんのこと話すときいっつも嬉しそうですもん。……私と話す時よりも、ずっと」
今笑顔でいられてるのなら、それはきっとアイドルになったおかげだ。アイドルの仕事を始めてから笑顔を作るのがとても上手くなった。ちっともおかしくない時であろうとも。
いつだって私は笑顔でなければいけないのだ。彼のために。彼に振り向いて貰うために。彼に可愛いと言って貰えるために。彼女の代わりになるために。
たとえそれが報われないと分かっていても。納得していても。諦めていても。醒めてしまうその時まで私はこの夢を見続けるのだ。
でも夢が醒める時があるとすれば――それは私の手で私にとっての幸せな空間を壊してしまった時だけなのだろう。
だから、まだ私は現実から目をそらして、夢の中にまどろみ続ける。
いつかそんな日が来てしまうことを畏れながら。
……だけど、私の言葉を聞いたプロデューサーさんは少しだけ考え込むような仕草を見せていた。
仕事のことを考えてる時の表情ではなく、なにかいたずらっぽいことを考えている時のような表情で。
どうしたのだろうと思った時。
「ああ、でもそういう話だったら」
彼が再び口を開いて、言葉を紡いだその時。
「お前のことだって好きだぞ、まゆ」
一瞬、息が出来なくなった。
言葉が耳に届いても、その言葉の意味を理解しても、その言葉がずっと私が待ち望んでいた言葉だって分かっても、しばらくの間何も答えられなかった。
口を開こうとしても身体どころか口すらも上手く動かせなくって、心臓だけが今までにないほどバクバク動いているのを感じていた。
「えっと、あの……どうして」
ようやく出てきた言葉も、ちっとも私らしくなんてない台詞。何も知らない少女のようなまどろっこしい問いかけ。
いつもだったらもっと私にとって都合のいいように話を導き出せるのに、この時だけは彼が思った彼の言葉を聞きたくなってしまったのだ。
彼はそんな私に向かって、少しだけ照れくさそうに微笑みながら。
「そりゃあプロデューサーだからな。好きだからこそトップアイドルにしてやりたいんだ。どれだけ好きかで言えば、そこらのファンに負けるつもりはないぞ」
そこまで聞いて、気付いてしまった。
当たり前のことだけど――そう、よく考えれば当たり前のことだけど、彼が好きだと言ったのは女としてではなくあくまでアイドルとしての私なのだ。
しかしそれでも彼は私の頭に手を乗せて、そのまま言葉を紡いだ。
「けどな――プロデューサーとしての贔屓目かもしれないけど、まゆは可愛いんだから。そんな風に自分を卑下する必要なんてないんだぞ」
そして彼は恥ずかしいのを誤魔化すかのようににこほんとせきをすると、そのままパソコンに向き直り仕事に戻った。
……さっきの言葉は、結局のところ苛立っていた私にむけてかけてくれた、プロデューサーとしての励ましの言葉に過ぎないのだろう。
けれど不思議と落胆する気持ちはなく、むしろ胸の中にどこか満たされたような気持ちが広がっていた。そんな自分があまりにも不思議だったので、しばらく目の前にいる彼から意識をそらして考え込んでみた。
そして、ふと気付いた。
いつだったか胸に抱いた「もしも」の世界――私がお話の中にしかないように思っていた世界は、もうとっくに彼が満たしてくれていたのだ。……私が、そのことに気付いていなかっただけで。
でも、それはきっと仕方のないことだ。だってそれは私が思うような特別なものではなく、当たり前のようにそこにあったのだから。
彼は一人一人のアイドルを仕事のパートナーとしてだけでなく、人間として向き合ってくれている。あるいは、向き合おうとしてくれている。
そんな彼だからこそ私たちの良いところを見つけて好きだと言ってくれるのだろう。
それはちっとも私の望んだ特別なんかじゃなくて。
でも、そんな彼だからこそ、私は――
仕事を終えた彼はパソコンの電源を落として、疲れたように身体を伸ばした。そして、もう冷めてしまったはずのコップに注がれたお茶を飲み干すと、私に声をかけてくれる。
「よし。それじゃ帰るか、まゆ」
きっとそれも、アイドルとしての私にかけてくれた言葉なんだろう。
それでも今までのような抵抗はちっともなくて。そんな自分に気付いた私は、思わず笑ってしまいそうになりながら。
「はい、プロデューサーさん」
「ん、なんか機嫌良いか?」
「当たり前ですよ。まゆはプロデューサーさんの傍にいられるだけで嬉しいんですから」
微笑みながらそう言うと、彼はばつが悪そうに頭をかいた。
「こんな時間まで付き合わせて悪かったな。今度のまゆのライブの時も、めいっぱい良い企画考えるから」
そんなこと、気にしてくれなくっても十分なのに。
なんてことを思いながらも、彼が私のことを少しでも考えてくれるのが嬉しかった。
……ああそうだ。どんな綺麗事を並べたところで私の本質は変わらない。私は欲深いから、今が幸せでももっと幸せになりたいと思ってしまう。彼の好きが私にだけ注がれればいいのにと願ってしまう。
だから私は呪いをかけるのだ。優しい彼がそんな私の欲深さに気付いてくれるように。私だけを見てくれるように。
「プロデューサーさん。……まゆを本気にさせると、怖いですよ」
するとプロデューサーさんは笑って答えた。
「なんだ、今までは本気じゃなかったのか?」
たぶん私の言葉をアイドルとしての事だと勘違いしてそう言ったのだろう。プロデューサーとしては有能でも、女の子の事にはにぶい彼だから。
でも今はその方が良い。勘違いしたまま私のことを気にし続けてくれればいい。気付いてしまった時には手遅れで、私から目を離せなくなってくれればいい。
だから女の子としての私は、彼に向かって心からの言葉を返すのだ。
「……いいえ」
そう、私にとって貴方に出会ったあの日から。
「ずっと、ずーっと本気ですよ。プロデューサーさん♪」
毎日がずっと特別な日なんだから。
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