薬物汚染中毒精神悦楽混乱崩壊そして依存



「寝付けないんです。最近、寝不足というか」

 地上に来てどのくらいの時間が過ぎただろうか。
 今でもあの頃のように『ウドンゲ』と、忌々しい声で呼ばれる声が聞こえてくる、気がする。姫様に「イナバ」の名を、師匠に「優曇華院」の名を与えられ、地上人に名を偽造するために「鈴仙」と当て字さえつけられた。
 だが、それでも月にいた時の鬱苦しい記憶は消えない。名前を変えても、地上に来ても、居場所を見つけても、一度背負った枷は無くなってはくれない。私は、逃げたのだから。
 苦しい。ただ苦しい。全てから逃げ出したことが、不意に精神的な闇となって襲ってくる。それが最近、酷くなってきている。心の疲れが寝不足となって身体に表れた。

「月の兎も寝不足になるのね」

 だから私は師匠――八意永琳に相談することにした。私の苦悩を知っていて、なおかつ治せそうな存在。私は師匠に絶対的な信頼を置いているから。
 カルテを見つめながら、淡々と台詞を読み進める彼女。真剣な表情が、凛々しい顔立ちをより引き立たせているようだ。

「優曇華、貴女……きっと疲れているのよ」
「疲れている……ですか」

 師匠に疲労を指摘された。だが、身体に異常は見られない。自分自身では。

「疲れているのは身体じゃなくて、心」

 私の心を見透かすように、師匠は的確に私の診断を進めていく。

「心の疲れ。優曇華、まだ過去のことを引きずっているのかしら?」
「……それは」
「別に言わなくても構わないわ。吐き出すことが解決に繋がると思ったら大間違い。私はカウンセラーじゃないから」

 私の唇に人差し指を当てる師匠。何も言うな、のサインだ。私は何気なく師匠の顔に見とれていたら、ゆっくりと微笑まれて、少しだけ心の疲れが癒えたような気がした。
 棚から何かを取り出す師匠。それを私の手に握らせてくる。

「私はカウンセラーじゃなくて『あらゆる薬を作る程度の能力』の持ち主よ。どんな薬でも作れるの。だから、はい」
「これは……?」

 手に握らされた何かを確認する。それは薬のカプセルだった。

「薬」
「見ればわかります」
「それもとびっきりのヤツ」

 とびっきり、と言って師匠は急に真剣な表情を作る。それに私は物怖じしてしまう。

「これはいわゆる……麻薬」
「ま、麻薬?」

 唖然としてしまう。麻薬、と言われて良いイメージは浮かばない。

「そう、麻薬……といっても、本物じゃなくてあくまでも睡眠薬なんだけどね。優曇華の睡眠不足は心から来ているから、それを治すためには強い薬じゃないと駄目だから。依存度が高い麻薬、と言っても差はないわ」

 手汗がにじむ。
 まさか麻薬……に値するものを処方されるとは思っていなかった。だが、心を治すという部分には納得出来る。今の私を治すには心をどうにかしなければならないだろう。それは自分でもわかっていた。一種のトラウマのようなものだから。

「飲んでも……大丈夫なんでしょうか?」
「注意点が二つあるわ」

 師匠は淡々と語る。

「一つ。協力な幻覚作用があるから、薬が効いている間は苦しいかも知れない」
「幻覚……?」
「そう、幻覚。それは優曇華の心を治癒するために、えぐられるようなトラウマを掘り出すことになるかもしれないわ。逆に、とても気持ちいい幻覚かもしれないけど、飲んでみないとわからないわ」

 重々しい口調でドラッグの説明をする師匠に、場の空気が変わる。

「二つ。強力な依存症状。この薬、麻薬と言ったじゃない?」

 麻薬と言われてさらに場が緊迫する。
 先ほど言った麻薬という意味。その真意を師匠は私に説明する。

「麻薬、ドラッグが禁止される理由。それは身体に害を及ぼす上に、強力な依存症状があるから。この薬も例外に漏れず強力すぎるために、一度ドツボにハマったら抜け出せないのよ」
「もし、依存してしまったら……?」
「廃人のようになるでしょうね、きっと」

 廃人、と言われて私は怖じ気づいてしまう。確かに睡眠不足は辛い。過去のことに捕らわれているのもわかる。トラウマ克服、過去の清算のためにはそれくらい強力な薬が必要なのも。だが、ハイリスクであることが私を躊躇させる。
 また、逃げてしまおうか。
 私が地上に逃げたように。

「リスクは高いわ。でも、それくらいしないと治らないわよ? 一時的に睡眠不足が解消されてもすぐに再発するでしょうね。リスクが高いほどリターンも大きいってこと。心の病気は元から取り除かないといけない、と私は思うわ」

 逃げたい、と言う気持ちも強い。だが、これは何かのきっかけなのかもしれない。睡眠不足、不眠症に悩まされるのは何も今に始まったことではない。月から地上に逃げたときから、永遠亭で暮らす間も時折悩まされてきた。
 今こそ、逃げずに立ち向かうべきなのかもしれない。たとえハイリスクであっても、ハイリターンであることには間違いない、はずだ。

「優曇華。貴女が恐れるのなら、別にこの薬を飲まなくてもいいわ。だけど」
「……はい」
「私は、貴女に立ち向かって欲しい」

 師匠の凛々しい視線が、私の視線と交差する。立ち向かう、か。

「……わかりました」

 今回こそ逃げずに立ち向かおう。睡眠不足もとい過去への清算のために。
 私のために薬を処方してくれた師匠、八意永琳のためにも。



 ★★★★★★★★★★★★★★★



 深夜。自分の寝室。案の定、今日も私は寝れなかった。身体が悲鳴をあげる。心が悲鳴をあげる。だけど、寝れない。眠れない。辛い。辛い。辛い。

「クゥ……っ」

 気がつけば自分の長髪を掻きむしっていた。指と指の間に、紫がかった色の髪の毛がたくさん絡まっている。

「これを……飲めば」

 戸棚から師匠がくれた薬のカプセルを取り出す。黒ずんだカプセル。机の上にはカプセルを飲み込む水もコップに注いである。
 これが、私を救ってくれるのか。それとも、私は薬に負けてしまうのか。

「……ええいっ!」

 意を決して、私はカプセルを飲み込んだ。そして水で流し込む。

「あっ」






 ――世界が反転した。






 ★★★★★★★★★★★★★★★




 ナイトメア。悪夢。意識が狂う。
 気がつくと私は宇宙にいた。懐かしい思い出。月にいたころを思い出す。身体が痙攣してきた。

「お休みなさい」

 眼を閉じて、開ける。新しい私が生まれた。なので私は横を見た。

「誰もいない」

 そこにはあざ笑うかのような口がたくさん存在した。とてもすがすがしい気分だ。
 笑う口。口たちが私を笑っている。目玉もないくせに。下品なおくちがいっぱい。私に話しかけてくる。心と心の更新。甘んじて受け入れた。
 耳を澄ます。

『死ねよ』
『お前は逃げたんだよ』
『汚らしい兎め』
『憐れだ』
『憐れ』
『憐れな兎』
『敗走を恐れた』
『恐れた』
『クスクス』
『クスクス』
『ゴミクズ』
『罪は消えない』
『戦うのが怖かった』
『怖い』
『怖い』
『可哀想』
『本当の名前も隠して』
『自分も隠して』
『ここはお前の居場所じゃない』
『居場所じゃない』
『だからお前は』
『駄目なんだよ』
『腐ってる』
『兎』
『?』
『お前はどこに』
『存在するんだ』
『真実はどこに』
『真実から逃げた』
『そしてこれからも逃げる』
『お前は逃げる』
『幸せは来ない』
『永遠に』
『そう、永遠に』
『ウドンゲ』
『優曇華』
『お前は』
『誰だ』
『クスクス』
『普通』
『平凡』
『普通』
『気持ち悪い』
『ただ気持ち悪い』
『不快だ』
『アハハ』
『狂気』
『おしゃか』
『お前が狂気』
『おこがましい』
『許せない』
『見殺し』
『助けて』
『逃げたい』
『これからも私は逃げる』
『聞こえない』
『聞こえたくない』
『逃げる』
『逃げる』
『逃げる』
『私は逃げる』
『逃げる』
『月から』
『師匠から』
『何者にも捕らわれず』
『笑え』
『クスクス』
『アハハ』
『笑われてもいい』
『幸せ』
『さよなら』
『さよなら』
『みんな』
『さよなら』
『消えた』
『消えた』
『みんな消えた』
『私だけが残った』
『違う』
『私が消えた』
『みんな残った』
『飛ぶ』
『死』
『飛ぶ』
『飛ぶ』
『トぶ』
『あ』
『さよなら』
『憐れな兎』
『初めまして』
『兎』
『優曇華院』
『逃げた』
『レイセン』
『空が』
『堕ちた』
『落ちた』
『堕ちた』
『朽ちた』
『私はここにいる』
『お前は存在しない』
『死ねよ』
『死ね』
『』
『』
『』
『』

『』



『『
『』

『』




『』










 空が登る。私は下がる。みんな溶ける。逃げたい。気持ちいい感覚が脳に入ってくる。気持ちいいが心臓を巡ってる。《気持ちいい》が《つらい》に変わると、私は走る。世界が死ねって。私に向かって死ねって。

「死ねよ」
「イヤだ」

 一人なのに二人。それどころかここがどこかもわからない。白紙が私に「イヤだ」というたびに、目の前の紙は黒く塗りつぶされる。そのたびに頬を涙が伝う。笑うな。

「笑うな」

 笑うな。笑うな。笑うな。
 笑うな。
 小さい頃、母親に「レイセンは可愛いわね」と言われたことがある。もちろん嘘の記憶だ。嘘つき。生きる存在はみんな嘘つきだ。これは嘘だ。ヒントはない。だけど、答えは嘘だ。私は可愛くない。
 そう考えると何だか楽しくなってきて、急いで地を蹴り上げて私は走り出した。その場で足踏みしているだけで走り回れるから、風景というのは勝手に動いてくれるのだなぁと惚れ惚れする。

「風景さんありがとう」

 心の中で思ったことが口に出てた。気持ちは漏れる。あふれる。想いはあふれる。暑い。今日はとても暑い。風景が苦しんでいる証拠だ。私は走ることをやめた。

「みんなありがとう」

 感謝の気持ちで胸がいっぱいになる。あれは骸骨さんたち。骸骨さんたちが私に「好き」と「嫌い」の違いを教えてくれる。私は骸骨が嫌いだ。生理的に受け付けない。
 ゲームをしようと思いつく。だから自分の腹を殴る。殴る。

「うぐっ……ウエ……」

 殴り続ける。一向にゲームが起動画面にならないのでストレスが溜まる。こんなにお腹を殴っているのに、どうして。だから骸骨さんたちに「またね」を告げた。泣きそうだけど、涙は隠した。「じゃあね」は言わない。「またね」だ。
 逃げよう。

「死体が襲ってくる。私に襲ってくる。兎の死体が襲ってくる。私はひねり潰した。だけどゾンビのように兎が、敷き詰められて、ここはどこでしょうか。私はここにいます。逃げても逃げてもここにいます。私は自分からは逃げられない。神様? 神様? ハロー。ハロー。初めまして、神様」

 兎の死体が地面にたくさん。それを踏みつけながら私は高笑いする。
 何だ、こんなに簡単なことだったんだ。
 私はこんなものから逃げていたのか。

「怖い」

 月に侵略者がやってくるという。人間たちが月を目指しているという。アポロ計画というアポロ計画というアポロ計画というアポロ計画というアポロが憎い。
 なので私は踊った。たくさんのプラモデルたちと。プラモデルという文化は幻想郷ではブームらしい。もちろん詭弁だ。自分が恐ろしくなる。嘘つき。嘘は逃げると同意義。逃げることは素晴らしいことだ。

「花畑が襲ってくる」
「そうね」
「花畑が襲ってくる」
「殺してやる」
「花畑が襲ってくる」

 上空には大量のお花畑。笑うしかなかった。こんなの、立ち向かえるわけがない。
 ギターの音というのは、アンプ一つで大幅に味が変わってしまう。なので機材にはこだわりたいな、と思った。私は楽器店に行った。幻想郷には楽器店がなかった。ギターとは一体何だろう? お花畑が私を慰めてくれた。
 身体に花びらがまとわりつく。白い花びらだけが私を愛撫する。肌にねっとりとした感覚がまとわりつく。
 私の日記はこれで終わりだ。

「日記なんか知らないくせに」



 ★★★★★★★★★★★★★★★



「あ」

 グルン、と視界が反転する。

「あ〜……?」

 呂律が回らない。
 舌が思い通りに動かなくて焦燥感が襲う。身体の言うことが聞かない。何か、よくワカラナイ。吐き気がする。吐き気。

「あ? あ? あ?」

 思考能力が覚醒するたびに、私は後悔の気持ちでいっぱいになる。
 薬による幻覚作用で、何か悪い夢を見ていたような。

「あ……」

 やがて口が回るようになる。身体も動く。冷静さを取り戻してきた。
 窓から朝日が差し込んでいる。

「寝れた……の?」

 どうやら私は薬による効能で眠れたらしい。それもしっかりとした睡眠。そう思うと気分が良くなってきた。

「寝れた! 寝れた! 寝られた!」

 ハイになる。これも薬の副作用なのか。どんどんと幻覚で見たことを忘れていく。それどころか過去のことも。辛い部分だけ一切合切、脳内から抜け落ちたようだった。薬が辛い記憶だけ白く塗りつぶしてくれたようだった。

「あ〜っ! 幸せぇっ! 幸せな気分っ!」

 両手を天に突き上げて、生きることに感謝する。
 どうやら薬によるハイリスクよりも、ハイリターンが勝ったということだろう。今日からまたぐっすり眠れそうだ。
 私は、過去に打ち勝ったのだった。



 ★★★★★★★★★★★★★★★



「ください」

 師匠に詰め寄る。

「薬を」

 焦る。

「ください」

 私は、焦る。

「薬をっ、く、くださ、くださいっ! くださいっ! 薬ォオォオッッ!」
「優曇華」

 師匠はどこか切なそうな顔で、私の頬に両手を添える。
 だけど、そんなことはどうでもよかった。薬。薬だ。薬が欲しい。薬のことしか考えられない。薬を、よこせ。
 薬を。

「師匠ぅぉおおぉっ、死ぬっ、私死ぬっ、眠れないっ! おッッ! 薬を飲めばいいんですっ! 薬をおぉおおぉっ!」

 喉から血が出てきそうなくらい、大きな声で懇願する。
 瞼の下が黒ずんできたのが実感出来る。頭が痛い。

「優曇華……」

 どこか後悔した顔で、目の前の女は私の名を囁く。偽名だ。それは偽名だ。レイセンが私。イナバが私。鈴仙が私。
 私は私だ。

「優曇華、貴女は私が思ったよりも心が弱かったみたいね。山場を越えれば、療養出来たのに、貴女は薬に負けてしまった。依存症状が綺麗に出てきたわね。……優曇華、貴女は弱い女よ」

 師匠が何か言っているが、私の耳には届いてなかった。
 あの薬さえあれば眠れる。過去から逃げられる。忘れられる。幸せになれる。不思議な世界に飛べる。
 起きた直後は何ともなかった。だけど、しばらくしたら急に焦り始めた。薬が欲しいと思うようになった。恋愛のように、薬に恋してしまった。薬の、黒いカプセルのことしか考えられないようになった。
 そして我慢出来なくなった。だからこうして師匠に詰め寄り、こうして懇願する。あの薬さえあれば、また私は安心できる。

「あの薬は麻薬。そして、毒。毒をもって毒を制す、と言うようにバッドトリップして、過去の悪い記憶にぶつけるから、心を治せる……はずだったのだけど。どんな良い薬も、クランケの気力がないとただの毒。このままだと貴女、壊れてしまうわよ」
「壊れてもいいです。いいですからァっ! 薬? く、薬ィ? 飲みたいィイイぃっ!」

 喋ることすら不自由になってきた。どんどん不安になってくる。月と同じように、今度は永遠亭が襲撃されるのではないかとさえ思う。
 逃げたい。逃げたくない。そのためには薬が必要。とにかく薬。

「……仕方無いわね。薬をあげる。ただ、前よりもっと強い薬をあげるわ。毒に勝つには猛毒。貴女、これ以上薬に負けたら廃人になるけど、それでもいいのかしら?」
「大丈夫ですからぁっ! カラっ! クスリをおねガいシマすぅうううッッッッ!」

 師匠が懐から、前よりも黒ずんだ薬を取り出す。その黒い輝きが私の眼には綺麗に映る。まるで宝石のように。
 それを奪い取るように師匠の手から取った。



 ★★★★★★★★★★★★★★★



 ナイトメア。悪夢。意識が狂う。
 薬を飲んでいるだけは安心出来る。悪いことが起こるのではないかという懸念。それを乗り越えた先のハイが私を待っている。それを知っていることの安心。
 懐かしい。月の大地を踏んでいる。帰ってきた。逃げ帰ってきた地球から帰ってきた。ただいまを告げる。波長が、月の波長が、ココハ、ドコ?

「私は兎を殺しました」

 裁判所。証言台に立つのは蓬莱山輝夜。姫様である。姫様はうつむいたまま、呟きのように自分の罪状を喋る。

「兎を殺したきっかけはわかりません。ふと《あの中身には何が詰まっているんだろう》と思っただけで。兎って、肉袋に見えるから。だから壊した。それだけです。月から逃げてきた兎に生きる価値なんてないと思ったから。彼女を呼び出して、背を向けてもらいました。抵抗も何もされず、彼女は私を信じました。そんな背中を見たら……刺すしかないじゃないですか。刺し殺すしかないじゃないですか。うめき声を上げられました。「姫様、何で……?」が最期の言葉でした。何でも何も、単純に中身が気になったから。肉袋としての価値しかない兎など、私には必要がないですから。ないですし。殺した。あ、中身は何もありませんでした。黒髪が血に染まっただけ。トリートメントが大変だなって。中身はその辺の兎と一緒。臓物。でも……一つだけ違った所があったわ」
「それは?」
「イナバの中身、嘘で詰まってたわ」

 瞬きをした瞬間、法廷が火に包まれた。どうやら私は殺されたらしい。姫様がそういってたから。月のイナバは嘘ばかり。炎の中で姫様は高笑いをしていた。焦げながら。焦げながら。

「月を目指した人間は、冷戦協定を望んだからこそ、月を目指したのに。戦いを恐れた自分勝手な兎は、逃げ出した。逃げ出した。ウドンゲ、あなたは卑怯者だわ」

 元の飼い主、綿月豊姫の声が聞こえる。耳をふさぎながら洞窟を抜けると、そこは森の中だった。木々生い茂る森の中。
 そこに生えた一本の木。その木に空いた穴から声が聞こえてくるというのだ。
 忌々しい。ノイズ。ゲイン上げた音。

「綿月豊姫」

 穴に語りかける。呪われた名を呼ぶ。

「黙れ」
「黙ります」

 黙った。
 結局何で私は逃げたのだろうか。そんなことを考えてみる。そういえば、幻覚作用なんだっけ、これ。この世界。本当に幻覚なのかな。
 私はポケットから腐った鼠を投げ捨てる。ネチョリとした、肉の腐った感覚。そして異臭が場を包んだ。

「お待ちしておりました」

 腐った鼠の死骸が私に挨拶する。ポケットからはどんどん鼠が出てくる。止まらない。気がつけば森は鼠の腐った肉の海に。愚かな私は溺れてしまった。
 今度は逃げることが出来なかった。

「これは……幻覚じゃなくて、現実?」

 朦朧とした意識の中で、私はダイブする。精神を潜り込ませる。肉体から解脱して、月まで届けと大きく叫ぶ。腰が重い。
 かがんだ因幡てゐを椅子がわりにして、座る。

「私は嘘付き因幡てゐ」
「てゐは嘘付きね」

 椅子との会話。意思疎通。眼がどんどん真っ赤になっていくのがわかる。波長が狂っている。この椅子のせいで。私はさらに腰を落とした。

「私は嘘付き。だけど、お前はもっと嘘付き」
「椅子のくせに」
「私を椅子だと思ってる。その真実が嘘だと知らず、真実だと信じている。結局何も知らないまま。逃げてたほうがマシ」
「寝不足は解消される。それでいいの」
「どうせ戻ってくるウサ」

 椅子は粉々に砕け散った。てゐの服だけがそこに残った。これは本当にあったこと? それとも幻覚? 依存? 崩壊? 何が本当? 何が嘘?
 どうせなら私は、今すぐこの場から逃げ出したかった。

「一生、逃げられないわ」

綿月豊姫がテレビの電源を消した。
 消す前に放映されていた画面。そこには私と綿月豊姫が手を繋いでいるシーンだった。



 ★★★★★★★★★★★★★★★



 ――ナイトメア。
 ――ナイトメア。
 ――ナイトメア。

「」

 私はあれから狂ったように薬を飲んだ。毎晩毎晩、大量の薬を師匠にせびって、それでも我慢出来なかったから、師匠の部屋から薬を盗んで。
 毎晩の様に飲んで、毎晩の様に躁鬱を繰り返した。様々な幻覚を見て、そして壊れていった。
 薬に依存し、負けてるのがわかった。だが、それでもやめることは出来なかった。自分が死んでいくのが身をもって体感出来た。
 あと一回だけ。次はやめる。心にも思ってない言い訳をして、また薬を飲む。

「」

 もう自分の声は、自分には届いてなかった。
 これが現実なのかもわからない。ひょっとしたら私は、逃げて逃げて、終着点にたどり着いたのかもしれない。ここが楽天地。エルドラド。桃源郷。

「」

 よくわからない何か。
 ふわふわしてる。身体も心もふわふわしてる。本当の苦しみから逃げられたのだ。薬によって、私は救われたのだ。見ろ、この私を。私はここにいる。鈴仙・優曇華院・イナバはここにいる。
 ウドンゲは死んだ。私は死んだ。そして産まれた。産声をあげて。一線を越えてしまうと悪くないものだなぁ、と思った。ゴール。

「」

 全てが黒に染まる直前、一瞬だけ私は抱きしめられた気がする。
 さようなら、そして始めまして。
 新しい私に、こんにちは。



 ★★★★★★★★★★★★★★★



 私は抱きしめる。

「優曇華……こんなになってしまって」

 私、八意永琳はひたすら、ただひたすらに抱きしめる。

「素敵ね」

 後悔なんてあるはずもなく、こうなることが最初からわかっていたかのごとく。目の前の廃人兎を抱きしめ続ける。
 身を離すと、締まらない口角から唾液を垂れ流したブレザーの少女が、かすかに微笑んだ。

「嗚呼、可愛く愛しく醜い兎。馬鹿で愚かな敗退主義者。勿論、そんな貴女を心より好いているわ。私、可笑しくなってしまいそう」

 彼女の姿を見ているうちに身もだえしたくなる。何て美しいのだろう。
 優曇華は薬に依存し、壊れてしまった。
 だが、本当に壊れていたのは私だった。私は優曇華に依存していたのだった。壊したくなるほどに。そう、壊したくなるほどに。
 廃人になることを、依存することを、薬狂いになってしまうことを全てわかってて、私は最初から計画的に薬を処方したのだった。

「貴女が苦しんでいたから。だから、その苦しみから解き放ちたかったの」

 優曇華の頬に顔を寄せ、白く濁った眼球に舌を這わせる。とても不味い、涙の味がした。

「私と薬は同意義で、だからこそ貴女を薬に依存させたかった」

 ただ無心に眼球を舐める。

「依存して、壊して、そんな自分が大好きで仕方無い。私の手の上で踊った貴女が大好きで仕方無い。歪んでいるでしょう?」

 舐める。

「逃げた先には私がいた。そんな貴女を私から逃がしたかった。愚かな貴女がたまらなく好きだから。二度とは帰ってこない貴女のために、今日も想いを馳せてあげる」

 舐める。

「こうして一人の蓬莱人は、最愛の弟子を手に入れることが出来たのでした。でもね、これは本当の物語かしら? 真実かしら? それとも――」

 舐めるのをやめて、優曇華を見つめる。嗚呼、素敵な肉人形。

「――嘘かもしれないわね? 誰かの逃げ付いた先かもしれない。誰かが薬で見た幻覚の一部かもしれない。誰かのゴールがこのシーンなのかもしれない。それはわからないわ。でも、それが幻想でもいいじゃない。今の私たちにとってはリアルなのだから。騙すのなら、一生騙し続けて欲しい」

 そして私は、優曇華に上げたモノと同じ薬を飲んで、彼女の耳元で囁いた。

「ねぇ、優曇華。貴女の逃げたその場所に、私も行くことが出来るかしら?」

 本当の臆病者は、私だ。



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