こんなにカワイイボクのコートをかけてもらえるなんて幸せ者ですね
事務所の扉の前でボクは改めて自分の服装を手鏡でチェックしてみる。少し曲がったリボンを直して、ちょっとだけはねた髪を手櫛で整える。小さく息を吸って、吐いて。そうしてボクはようやく事務所のドアをノックした。
「おはようございます」
そのままがちゃりと扉を開けてみると、中には誰もいなかった。誰もいなくてほっとした気持ちが半分、誰もいなくて残念な気持ちがもう半分。仕事の時間より前に来るようにしてるとこういう時がたまにあるのだ。
「それにしても鍵をかけ忘れるなんて不用心ですね……」
プロデューサーさんにはあとで言っとかないといけませんね。そう心に決めながらお茶でも淹れて待ってようと事務所の中に進んでいくと、唐突にごそりと物音がした。
「ひゃっ……」
誰もいないと思い込んでいたので小さく悲鳴をあげてしまった。誰も見てないとはいえ、恥ずかしくて顔が赤くなってるのが分かる。
いったい何が……と思いを巡らせたのも一瞬のこと。音がした場所をのぞき込んでみれば、なんてことはない。ただ単にソファでプロデューサーさんが寝てただけのことなのだ。
「もう……驚かせないでくださいよ」
未だに寝そべるプロデューサーさんに向かってため息混じりにそう話しかけた。返事が無いところをみるとぐっすり眠ってるのかもしれない。
「まったく、こんなところで寝てると風邪ひいちゃいますよ」
そうぼやきながら事務所を見回してみたが、あいにく毛布のようなものは無かったので羽織ってきたコートをかけてあげて。
「……特別ですからね。こんなにカワイイボクのコートをかけて貰えるなんて、プロデューサーさんは幸せ者ですね」
耳元にそっとささやきかけた。そうでも言っておかないと、その、ボクがプロデューサーさんにしてあげたくてコートをかけてあげてるなんて思われたら困るからだ。上下関係はしっかりしておかないといけない。
「でも、本当によく寝てますね……」
それだけ疲れてるということなんだろう。特に最近はこの事務所に新しい人が入ってきたりしたせいで寝不足だって言ってた気がする。
ボクがオフの日にプロデューサーさんが働いてるなんてことも結構あるので、スケジュールの調整が出来ないうちは一人増えただけでも相当な負担になってしまうのだ。当たり前のことだけど、プロデューサーさんにとってのアイドルはボクだけじゃないのだから。
「……ボクにとってのプロデューサーはあなただけなのに、ね」
言ってしまったあとで恥ずかしくなってつい顔が赤くなってしまう。だがプロデューサーさんはそんなボクの心情など素知らぬ様子で、ぐっすりと眠ったままだった。
良かったような、それとも聞いて欲しかったような。
「……それにしても気持ちよさそうな寝顔ですね」
普段仕事してる時とは違う、あまりにゆるみきった寝顔。いつも見せてくれないそんな顔を見せられると、ついつい嗜虐心をくすぐられてしまうわけで……。
ぷにっと、頬を指でついてみる。
女の子の肌とは違う硬い肌と、僅かに生えた髭の感触が指先に伝わって、少しだけこそばゆい。
「ふふっ、こんなことされても起きないなんてダメなプロデューサーさんですね♪」
そのままぷにぷにと突いたりつねったりしてみて、しばらく遊んでみる。何やらむずがゆそうに身をよじったりするものの、全くと言っていいほど起きる気配はない。
「ほら、起きないともっといたずらちゃいますよ?」
一通りもてあそんだ後、じっと寝顔を傍で見つめてみる。思ったより眠りは深いようで、この分だと本気で起こそうとしないと起きないかもしれない。
「……本当に、寝てるんですよね?」
もう一度だけそう問いかけてみる。返事はなく、寝息だけが響いていて。
この部屋には二人だけしかいないはずで。何をしても、ボクだけの秘密にしてしまえるはずだから。
静かに、そっと、顔を近づける。
「いたずら、しちゃいますよ……?」
あくまで、いたずら。
そう言い訳を囁きながら、ボクはプロデューサーさんの――
「何してるんですかぁ、輿水さん?」
――する前に、ぴたりと動きは止まってしまった。
おそるおそる、声がした方を振り向いてみる。そこにいたのは、ソファの傍らで佇んでいたのは、最近この事務所に入ってきたばかりのアイドルである佐久間まゆさんだった。
「面白いことしてるなぁって見てたら……ふふ、何するつもりだったんですか?」
微笑みながらそう聞いてくる。その瞳から訴えかけてくるのは、明らかにその行為を咎める以上の感情で……うう……。
「さ、佐久間さんこそいつ来たん……ですか?」
「少し前ですよ。音を立てないように入ってきましたけど……声をかけるまで気付かれないなんて、よっぽど夢中だったんですね」
なおも微笑みをたたえたまま尋ねかけてくる佐久間さん。瞳はちっとも笑ってない。
……正直なことを言うと、ボクは佐久間さんが苦手だ。いつもプロデューサーさんに仕事の関係以上にべたべたしてるし、ボクがプロデューサーさんと話してると何かと邪魔しようとしてくるし。なんというか、好意と敵意がむき出しなのだ。
「ぷ、プロデューサーさんの顔にゴミがついてたからとってあげようとしただけですよ!」
「お口で、ですか?」
「は、はい……そうですとも」
かなり無茶な言い訳だったけど、今更引くわけにいかなかった。
すると佐久間さんは少し考えるような素振りを見せた後、とことことボクの横までやってきてプロデューサーさんに近づいたかと思ったら。
ぺろりと。
舌でプロデューサーさんの頬を舐めた。
「なっ……なな何してるんですか!」
「何って……プロデューサーさんのお顔についてたゴミをお口でとってあげただけですよ? 輿水さんも同じ事しようとしてたじゃないですか」
「舐めたりなんかしません!」
「ちょっと頬を味見しただけじゃないですか。それにぃ、貴方がしようとしてたことに比べればずっと健全だと思いますけど?」
「ううっ……」
あの場面を見られてしまったという弱みで強気に出ようにも出られない……というかプロデューサーさんはなんであんなことされても起きないんですか!
ふふっと不敵な笑みを浮かべ勝ち誇った顔をしている佐久間さんを見て、改めて思った。……やっぱりこの人、苦手だ。
「面白くなさそうな顔してますね。……でも、まゆだって同じなんですよ?」
「……なんのことですか?」
そう尋ねると、佐久間さんは少しだけつまらなそうにプロデューサーさんがしているネクタイを手に取った。ああ、それは確か――
「このネクタイ、輿水さんがプレゼントした物なんでしょう?」
ボクがこの間日頃の感謝のお礼に贈ってあげたネクタイだ。
あの日以来、プロデューサーさんはスーツを着るときはいつもこのネクタイをしてくれている。ボクが恥ずかしいからあんま着けないでくださいって言っても、ずっと着けててくれて……ま、まあボクがあげたネクタイが一番センス良いからなのかもしれないですけどね!
「プロデューサーさんに聞いたら嬉しそうに話してくれましたよ? 輿水さんがくれた物だって。……それに、まゆがもっと良いネクタイあげますって言っても、輿水さんに悪いからって言って受け取ってくれなかったんですから」
「えっ……」
それは、初耳だった。
「よっぽど大事に想われてるんですねぇ……羨ましくって、つい、ふふっ、壊したくなっちゃいたいぐらいでしたよ」
プロデューサーが、そんなことを……。
胸がドキドキして、ちょっとの間いつもの憎まれ口を叩くことすら出来なかった。そんなに大事にしてくれてるなんて思いもしなかった。他の娘のプレゼントを断ってまで身につけていてくれてるなんて……。
そんなボクを見ながら佐久間さんは、つつつとネクタイを指でなぞって。
「だからネクタイピンをプレゼントしたんです。似合ってるでしょう?」
「……ってそれどういうことですか!?」
言われてみれば今もボクのネクタイにピンが留められてるし! 最近見慣れないタイピン付けてると思ったら! この女からのプレゼントだったなんて!
「プロデューサーさん喜んでくれましたよ? あの時のプロデューサーさんの顔ったら……まゆも大切にされてるんですね。ふふっ」
「ふ、ふふーん。でもピンなんてネクタイの付属品に過ぎないですからね。ちっとも悔しくなんかないですもん!」
「そのネクタイをきっちり見栄え良くしてあげるのがタイピンの役割ですよ。それにピンでしたらどんなネクタイでも着けられますから、ね」
うう……そもそもあのプロデューサーがこの女のなんて受け取るからいけないのだ。プロデューサーのすけこまし……。
だがそれだけ勝ち誇った表情を浮かべていたにもかかわらず、彼女は急に真剣な表情になって。
「……まゆが何を言いたいのか、分かりますか?」
「な、何ですか……」
彼女は立ち上がると、ボクの正面から真っ直ぐに告げた。
「まゆ、負けませんからね」
その言葉は宣戦布告にも似た響きで。
「な、何のことですか?」
「いくら付き合いが長くても、どれだけプロデューサーさんと一緒にいても……まゆが一番プロデューサーさんのことを愛してるんですから」
歯の浮きそうなストレートな言葉を、大真面目に言っていた。
「な、な、な……」
開いた口がふさがらないというのは、きっとこの状況なんだろう。
今までそういう素振りを見せている娘は確かにいたけれど、まさかアイドルでありながらこんなにもはっきりと言ってしまう人がいるだなんて。
部屋の中にしんとした空気が流れていた。お互いに目を離すことが出来ずにらみ合ったまま、プロデューサーさんだけがのんきに眠り続けていた。
そして、その静寂を破ったのも佐久間さんが先だった。
「……反論がないってことは、納得してくれたってことで良いんですよね? うふふ、大丈夫ですよ。まゆが輿水さんの分までプロデューサーさんのこと幸せにしてあげますから」
言いながら、佐久間さんはプロデューサーさんの傍らに寄った。その彼女の顔からはプロデューサーさんへの真摯な思いが伝わってきて。もしかしたら彼女と一緒になった方が本当に幸せになれるんじゃないかとすら一瞬思ってしまって。
「ね……プロデューサーさん♪」
だからボクが言えることなんて、一つしか無くって。
「……待って下さい」
ぴたりと、佐久間さんの動きが止まって。おそろしく冷たい瞳がボクを射貫いた。
ここで彼女を止めるっていうのは、つまりはそういうことだ。でもボクには彼女を止める以外の選択肢なんてまるで無かった。
「ボクだって……ボクだって……」
その先の言葉がまるで思い浮かばなくって。でも言わなくっちゃという衝動だけに突き動かされていて。心臓がばくばくしていて、息をするのも苦しくって。今すぐ座り込んでしまいたいとすら思ってしまって。
でも言わなくっちゃ。佐久間さんがいてもいなくても関係ない。ボクはそこにいる人に向かって――
「ボクだって、プロデューサーさんのことが――!」
ピピピピピピピ。
そのボクの言葉を遮ったのは、佐久間さんでもなく、プロデューサーさんの携帯から鳴り響くアラーム音だった。
するとどれだけボクらが騒いでも起きる気配すら無かったプロデューサーさんはもぞもぞと寝ぼけた様子でアラームを止めて、むくりとソファから起き上がった。
「んあ……すまん、もう来てたか。悪いなちょっと寝不足でさ」
固まったまま動けないでいるボクを尻目に、佐久間さんはどこからともなくコーヒーを淹れてきて。
「はいどうぞプロデューサーさん。お目覚めにコーヒーはいかがですか?」
「ああ、ありがとう……ちゃんと目ぇ覚まさないとな」
コーヒーに口をつけるプロデューサーさん。一息ついてから、ふと気付いたようにボクに向かって。
「どうしたんだ幸子? 顔真っ赤だぞ」
そう言われてから、ようやくボクは自分の頬が赤くなってることに気がついて――
「し、知りません! プロデューサーがいつまでも起きないのが悪いんです!」
「お、おう……寝坊してすまんな」
ボクの気持ちなんて知りもせずに素直に謝ってくるプロデューサー。こういう所は本当に察しが悪いというかにぶいというか。
とにかく今確実に言えることは、ボクの一世一代の告白は、完全に言いそびれてしまったということだ。
「そ、そんなことより、今日のお仕事は何なんですか?」
「ああそうだったな……といっても仕事というか連絡なんだが。……まゆからはまだ聞いてないか?」
? と頭に疑問符を浮かべながら続きを待っていると。
「実は幸子にまゆと一緒にユニットを組んで貰おうと思って」
「……はい?」
とんでもない爆弾を投下された。
「いやー、まゆに幸子のことを話したらなんだか興味持ったみたいでさ。丁度良いから一緒に活動させてみようかって話になってな。幸子も大分アイドル慣れてきただろ? まゆもモデルとしては長いけどアイドルの世界はあんまり知らないから、先輩として教えてやってくれないか」
「え、いや、あの、ちょっと……」
あまりに突然のことに狼狽えていると、佐久間さんが二人だけの時には決して見せなかった笑顔を浮かべながら、ボクの手を握った。
「幸子ちゃん! 今日はお仕事あるからお別れだけど、これから一緒に頑張ろうね」
「さ、幸子ちゃんって……へ?」
思いっきり猫被ってる!?
ボクの返事も聞かないまま佐久間さんは耳元で、そっと。
「でもアイドルって大変だから――怪我や病気に遭わないように、気をつけて下さいね♪」
ぞくりと背筋が凍るような声で、そう囁いた。
「それじゃあ、お疲れ様です。ふふっ」
そして佐久間さんは事務所から出て行った。……嵐のように、色々な物をめちゃくちゃにしながら。
「珍しいなまゆがあんな心を開くなんて。早速仲良くやれそうじゃないか」
「……本当にそう見えたんだとしたら、プロデューサーさんの目は相当な節穴ですね……」
のんきに笑ってるプロデューサーさんに、文句の一つでも言いたくなってしまう。
「ん、幸子はまゆのこと嫌いか?」
「嫌いと言いますか……その、苦手です」
今後のことを考えると嘘を言うのも躊躇われたので、素直な気持ちを答えた。そう言ってしまうことでプロデューサーさんも少し傷つくんだろうなって分かっていながらも。
案の定プロデューサーさんはばつの悪そうな顔を浮かべながら。
「あー、確かに我が強いところがあるからなぁ……。でも悪い娘じゃないんだぞ? 少し思い込みが激しいだけでさ。まだこの事務所に友達も少ないから、出来れば仲良くしてやって欲しいんだ」
「……そんなの、分かってますよ」
そんなの分かってる。プロデューサーさんが優しいだけではなく、佐久間さんは決して悪い人じゃない。一途なだけなのだ。
ボクにあんな風に接してきたのはプロデューサーさんのことを想ってのことなんだろうし、もっと話してみれば仲良くもなれるのかもしれない。
でも、それとこれとは別なのだ。
あんなことを宣言されてしまった以上、彼女はライバルでもあるのだから。
「……そっか。無理はしなくても良いからな。こういうのは幸子の気持ちが大事なんだから」
だけど、だからこそ、プロデューサーさんの優しい言葉に向かって、ボクはこう答えるのだ。
「……ふふーん、ボクを甘く見ないで下さい」
まゆ、負けませんからね。
はっきりとそう言った彼女に負けないために、精一杯の虚勢を張る。
「誰と組もうと問題なんてあるわけないじゃないですか。どんなユニットでもボクはトップアイドルになってみせますよ」
プロデューサーさんは笑って。
「そうだな。それでこそ幸子だ」
ボクの服の上に、何かを被せてくれた。
「コート、ありがとうな。おかげでぐっすり眠れたよ」
それはボクが眠っているプロデューサーさんにかけてあげたコートだった。何も言わなくてもプロデューサーさんはボクのコートだと分かってくれたのだ。
……もちろん、プロデューサーさんはボクにだけ優しいわけではない。このコートが佐久間さんの物だったらきっと同じように彼女にお礼を言ったことだろう。
ボクだけのプロデューサーになってくれるのは、まだまだ先の話なんだろう。
でもそのコートが、まだ少しだけ暖かかったから。
「……ボクにこんなことしてもらえるなんて、プロデューサーは幸せ者なんですからね」
いつもより深くコートを被り直すだけで、良しとしてあげます。
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